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いつでも雨が降れば花が咲く(その1) [実録風小説]

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amuro namieの不可解(その1)シリーズ一挙無料公開

数詞 一

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沖縄コンベンションセンターへの回路(1)

 飛び起きた息子を叩き起こし障害手帳を忘れずに持ち、愛車のPRIUSを下市口まで走らせた。こんなはずではなかった。大切な日、飛行機に乗り沖縄に二人で旅する日、一は飛行機の搭乗時間を午後と勘違いしていた。午後の二時には那覇に着く便だった。
晩秋の朝、近鉄南大阪線の空はすっかり明るく日差しもたっぷり注ぎだした。モドカシイ思いで近鉄南大阪線特急に乗車した。息子はなにごとかと、思いながらも乗り物に乗るのは好きなので、機嫌は良かった。自閉症で知的障害もあり、幼い時の多動があったころは大変な思いで目を離すこともできず苦労したといえば、したが、この日を二人で楽しみにしていた。2006年「NAMIE AMURO LIVE STYLE2006」の追加ファイナル公演は15th ANIVERSARYを締めくくる沖縄出身の安室奈美恵のふるさとへの凱旋公演である。公演が決まるとすぐに申し込んだ。自宅になかなかチケットが届かないのでファンスペースに電話をかけたのは、もう公演日が迫ってきたからだった。
思えば、昨日の陽光がウソのように北風が吹くという予報を耳にしながら、吉野X町の丘陵地に張りつく新興住宅街もすっかり世代交代期を迎えつつあることを一は肌で感じてきた。奈良・吉野のX町に来たのは昨年夏の八月二十日以来だ。庭には三月には蕾が膨らむ紅梅の枝垂れ梅と同じ色の沖縄の緋寒桜を植えていたが、もうない。緋寒桜はこのX町でも早く咲き紅色の花を下向きに咲かせてきた。日当たりの悪いところに植えていたが西日が良くあたるので、五年もすると立派に育った。桜前線の開花予報は本土中心の報道なので緋寒桜にまで及ぶことはめったにない。二階の窓越し見える大峯山系はちょっと前まで雪で真っ白だったのに、青々となりつつありその全貌を現そうとしていた。
 一の日課はCLつまりUEFAのチャンピオンリーグの一回戦2thレグを見ることから始まった。リーガ・エスパニョーラや深夜のサッカー中継を見るとどうしても寝不足になる。しかしFCバルセロナとACミラン戦だけは見逃すわけにはいかない。1thレグアウェーで0対2とまさかの完敗後、国王杯、リーガ・エスパニョーラのクラシコでも2連敗しており、ファンもさすがに監督代行では仕方ないかと思いつつもカンプノウスタジアムでの試合だ。バロセロニスタならずともサッカーファンなら関心を持つ。そのためにこの試合に照準をあわせてスカパーの無料放送に申し込んだ。一がこういう電話をすると良く有名人が出ることが多かった。この少し前に申し込もうとしたときは、安室奈美恵らしき声がしたが、名乗る名前は聞き取りづらかったことと、手続きのメモするための筆記具が手元付近になく、一度はうっちゃっていた。実はそういうことに慣れてしまい耳の老化のせいなのか声の質や色を聞き分けることができないこともあり、本当に本人かどうかなど疑ったりしないことにしていた。しかし、あの時はちがった。

二〇〇六年秋、阪神タイガースは秋季キャンプを倉敷マスカット球場で行なっていた。キャンプ取材休日の午前中は念願の倉敷大原美術館に足は向かっていた。ここで棟方志功の板画を見るのを楽しみにしていた。それは自分史の日記帳の装丁が棟方志功の金箔押しで彩られていた偶然と一致した。一はチケットが届かないことが気になり、東京のファンスペースへ携帯から電話した。すると、どこかで聞いた声がした。一は(あっ安室ちゃんだ!)と、思ったものの驚いている余裕はなかった。それよりも、チケットがなぜ届かないのか気になっていたので、
「沖縄コンベンションセンターLIVEチケットが届かないんですけど、どうなっていますか?」と手元の紹介番号とファンクラブ会員番号を言いながら、尋ねた。すると、安室ちゃんらしき受付嬢が、
「少しお待ちください」とやさしく反応してきた。この心地よさはなんだ、と一は思った。こんな形で安室奈美恵と話をするなど思いもよらなかった。沈黙の数十秒があり、

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「あのお客様、ファンクラブチケットのチケットの送料が入金になっていません。だから、600円大至急送ってください。そうしたら間違いなく届きますから…ご安心ください。わたしどもファンクラブはあなたたちファンが支えですからスタッフはご来場をお待ちしていますから…最寄りの郵便局からお振込みください」と 耳に飛び込んできた。
「やった!」
 安室ちゃんと話たし、安室ちゃんは息子の参加を歓迎している。手応えの根拠は一には余るほどの行為で感じていた。
思えば、夏のHikkiの埼玉スーパーアリーナ公演から安室ちゃんの幕張メッセとハシゴして以来、大阪城ホールへは追加公演を含めて四日間に三回も通った。そのうち二回は心を込めた花束を届けていた。また、ナゴヤ遠征のときにも最寄りのイオンモールの花屋さんに行き、花屋さんの松島トモ子さんに「よろこんでもらえるでしょうか?」と尋ねたら、「そりゃ喜んもらえます。わたしも貰いたいほどですよ」と励まされた。宛先を告げると、そこにはどこから見ても松野明美さんがいた。こんがらがったが、東京代々木第一アリーナLIVEにどうしても行けない事情を理解して貰うための花束だった。はっきりいって彼女らの商売は高価な花束や胡蝶蘭などが届くから、ファンとしての一のようなおじんの行為は恥ずかしい。しかし、気持ちを伝えることが大事と感じてきた。それは、安室奈美恵が阪神タイガースの二軍の試合になぜか、顔を出していたという過去にさかのぼるのだが、ここは倉敷での一の行動だ。
一は倉敷大原美術館を堪能してから、奇妙な行為をした。誰かに命じられたわけではない。ただ、天の声が耳に届き自分の感覚に命じられるままに、行動した。思えば、このキャンプ地の広報受付にはなぜ、磯山さやかがいるのかがわからなかった。
岡田監督が広報通じて、「ゴルフでも誘ってやれよ!」ということを言っていたようだが、一は大阪に戻り、安室奈美恵の15th ANNIVERS 「NAMIE AMURO LIVE STYLE2006」の大阪城ホールへ行く予定があった。これは安室奈美恵との運命的出会いであり、通過しないといけない儀礼でもあった。それで安室奈美恵を喜ばしたい。松嶋トモ子の言葉を信じるしかない。ナゴヤ遠征の仕事先でもいろいろあったが、そんなことにかまけている余裕はない。一にはHikkiと安室ちゃんを必要した年、それが2006年という人生の節目の決断をしていた行動様式なのだ。
「それじゃ、忘れずに送料お送りくださいね。確認次第、安室奈美恵の笑顔つきのチケットお送りしますから…」と冗談までいっているではないか。そこまでいうなら(愛情つきで…)とか言って貰いたいとは思ったがそれは欲張りだろう。花束贈ったぐらいで、いちいちファンサービスしないだろうと、もちろん冷静な心も持ちあわせている。しかし、飛び上がりたいうれしさだ。早速、しごとが一段落すると、倉敷マスカット球場の記者室の末席でインターネットにつないだ。宿泊つきの安い沖縄と関空のチケットが手に入るツアーを探しのだ。すると大人二名宿泊つきで6万円代の手頃な予算で行けるツアーがあった。食事なしの宿泊はビジネスホテルだ。文句ない。コンベンションセンター行きのバスターミナルへは歩いて行ける。国際通りも歩いて行ける。モノレールもある。一は小躍りして、貯金を取り崩す段取りをした。

一ほど沖縄コンベンションセンターのLIVEを楽しみしていたファンはいない、と思うのは言い過ぎだが安室奈美恵が育った普天間基地に近い宜野湾市コンベンションセンターは思えば、息子が二歳のときの正月休みの家族旅行で訪れた地でもあり、感慨もあった。当時の全日空ホテルの正月は贅沢な時間だった。高級おせち料理は初めての海外旅行グアムでは味わえない趣だった。嘉手納や普天間の基地がすぐ近くにあることを忘れさせる一瞬、確かに日本はバルブ弾ける予兆を感じながらも、土地神話だけがひとり夢遊病者のように巷に跋扈していた。ダイエーは土地神話もあり福岡で福岡ツインドーム計画のひとつを建て、高級ホテルをグループでつくりアジアへの橋頭堡構想で現実はその通りに動いていた。確かに基地の街沖縄はまるごとリゾート法の餌食になり沖縄の本土化は着々と進み、箱物はもちろん、沖縄がプロ野球候補生供給地の有力県となる動きはその本土化に与えられた資格試験のようなものでもあった。
あの、本土復帰後の沖縄のまだ占領下の色濃い1ドルハウスが乱立する那覇国際通りの雰囲気とは何もかも違った。タクシーをチャターしての観光めぐり、複製された首里城、ウチナンチューたちは、基地問題を気にしながらも観光立県を享受しているようだった。いつの間にかの本土化は、時間軸のせわしなさを感じさせることもあったが、それは那覇国際通りぐらいで、一歩田舎にでるとちがってホッとしたものだった。沖縄は琉球王国だったのだ、と、思う。確かに戦争で唯一の本土決戦の地となり、ひめゆり学徒隊の悲哀を出すまでもなく、日本国の理不尽に沖縄県民はよく絶え、よくここまで頑張っているという共感は強い。それは、平和を作る原理からも当然なのだ。それだけに、二〇〇六年という時間軸をとった場合、普天間基地移設問題が深刻な課題だったのは、一にとっても認識はあった。あのイラク戦争に加担した日本はこの基地を拠点としてベトナム戦争を例に出すまでもなく、アメリカとの軍事同盟の名のもと、やりたいようにやられてきたのだ。思いやり予算は福祉予算二千億を削ってのアメリカへの貢物だという、ことを思いだすたびに、一は憤りを感じてきた。
しかし、いまの関心ごとは安室奈美恵の15周年LIVEのコンベンションセンターに息子と参戦することが急務だったのだ。
一は倉敷大原美術館鑑賞のあと、気がかりなことを一個ずつ実行した。ひとつはあのマラソンの高橋尚子をなんとかしないと、高橋尚子は負けるということを感じてきたことだった。そのために、針金細工のブローチ製作者に名前入りブローチを注文した。ついでにアティーストの倖田來未さんにも同じ要領のブローチを注文した。さらに手創りコーナーで名前入り携帯ストラップも二個注文した。加えて棟方志功仕様のファイルやカレンダーなど土産物を買っていた。なぜ、問われれば、なぜか、はうまく言えない。確かに一の脳に感じ感覚が知覚されて、それゆえの行動としたいいようがなかった。そのことは、昨年六月に公表したブログで秘密の一端を明かしていた。



「天気予報士女子アナウンサーの『報道ステーション』と蜜月願望のころ」

 と題したブログは一が当初公開予想以上の世界への反響があり、アジア間の緊張が緩和なされたできごとだったのだが……。

以下、本文のみを見てみよう。

 誤解を受けると困るのですが、私はこの手紙以前にヒッキーに秘密のUSB(タイガースグッズ仕様)にファンペルシーを語り、ANの沖縄公演に息子と参加するという私生活的には多忙の中、夏にはHikkiの埼玉スーパーアリーナとANの幕張メッセのLIVEを前年に行き、さるネットカフェでHRやFDさんに会うこともあり、テレ朝とフジの女子アナに平等に花束をばら撒きをしておりました。だから、秘密の契約書原案を書いたのはさらにあとなのです。しかも、条約は第三者の東テレ女子アナに預けましたが、その後進展しているわけではありません。その間に秘密のUSBは書き加えられ、ある段階までヒッキーにシルバーNOTEと共に贈ったというのが、時間的事実経過です。そのUSB発想(発送)に際して、AN本人及びその関係者の阻止のための働きの攻防が相模大野駅の花屋さんでされたのも事実ですが、その後がいろいろあるのも事実なのです。


拝啓 I.H様(その1)

 9日に葛城山麓の一言神社にひとりで、初詣に行ってきました。目的は二礼二拝して〝ひとこと〟お願いして一礼するということでした。〝○○○〟。
 中身は想像できますか。ヒントはガンダム。思わずつぶやきました。

 昨年のお札は返納するのがしきたりですが、すでに剥れて、紛失していましたので、通常家族の数だけ貰う「一陽来復」の小さなお札を5つ貰ってきました。一つは私が持ち、二つ目は息子に持たし、さて、後の3つをだれに見せたいかと、思案しながら貰ったのですが、実は二つまでは既に決まっていました。

 まっさきに、お話していたI.Hさんにこのお札をお見せしたい。お気に入れば財布にでもしのばせていただければいいし、お守りで祈祷されているものでもありませんから、デスクのどこかに、しまっていただいても結構かと存じます。

 いつのころからかわかりませんが、報道ステーションを見る機会があるとき、私はあなたの天気予報コーナーが気に入り、ひそかな楽しみにしていました。
 以前にも書きましたが、薄暮の空に白く大きく輝くベガ(織女星)の0等星の輝きは恒星の中でも3番目に明るい星だそうですね。あの星を見たとき、あなたの名前を想い浮かべたのは、きっと必然だったような気がしてきました。年末のドラえもん特集に出ておられたお姿を見たときは、思わず、見とれてしまいました。報道ステーションの特集と違った、アットホームな雰囲気の衣裳が新鮮に感じましたし、ライブが得意だからでしょうか。自分の出番になったときの歯切れの良さがより一層、私のお気に入りになってしまいました。

 もとより、勝手な思い込みですから、適当に聞き流していただくだけで十分なのですが、私はまずは、二人の読者のために小説を書いてみようと想いたちました。その最初の読者は、できればあなたになっていただきたい、とこれも勝手連のように勝手に思っているのですが、お暇があれば(多分ご多忙で無理かな…)ぜひ、読者になっていただければ、大変うれしく存じます。一身上の事情により、ネット環境がありませんので、最近は報道ステーションの新コーナーを見ておりませんが、ボチボチ見れるようになれれば、いいなぁ、と考えています。

 ただ、一つだけどうしても記しておきたいのは、自分の周りで起こる、不可解な事件や遠い国でのテロや天災などが、自分の行動と関わりのない、あくまでも偶然の産物であることを祈っています。実際、私の一身上の諸事情で起きた家族や縁戚関係が(ここに単語は書けない)悲惨な殺人事件や、フセインの公開処刑などと結びつくようなことがないように、願っています。昨夜の南と東で爆弾低気圧の影響でしょうが、巨大な風力発電の支柱が根元から倒れる奇怪な現象を確かナレーションしておられたと存じますが、自分でも何でこんなことが起こるのだろうと、不思議でなりません。

 この現象が今後も続くようであれば、私は文化人類学か何かの研究素材になってもおかしくないんじゃないか、と自分を客観的に見た場合に思えて来ます。(まあ、実は統合失調症ですが……)

 もちろん、そうはならないことを願っています。普通の人よりちょっと感受性が強いのかも知れない、「I.Hさんを勝手に応援する会?」の個人投書好きおじさんであることが、当面の願いです(笑)。それから、七夕の季節にまたうまく出会えたら、そりゃ幸せな気分になることでしょね。
 一体、何書いているんでしょうね。手書きにしなかったのは、ちょっと記録として素材を報道ステーションに提供しようという、意図も少しあります。

 すぐに東の方向へ行けなかったのは、少し残念ですが、こうして、お手紙(ご迷惑でなければ、月一回ぐらい書かせていただく)、素敵なI.Hさんとつながっていたいからです。もちろん、いつの間にか、東の方で暮らしている状態にするのが、自由を得た私の最大の望みではあります。
 報道ステーションのメーンキャスターのFさんやKさんはじめKFさん、TEさんやMさんのレポートも見る機会がある限り楽しみにしておりますし、報道記者の現場主義や特集もそれぞれ魅力的です。報道の王道って何かわかりませんが、ニュースステーションで久米宏さんが築いた、報道SHOWの新たな切り口が継続展開されるみなさまのご活躍を期待しております。

 私が健康である限り、報道ステーションの応援をしていきます。だらだら、長くなりました。今年初めての天気予報の日は屋上のバックに東京タワーが映えて新鮮でした。二日目は裏のドラマを見て、天気コーナーとスポーツコーナーを見逃しました。ごめんなさい。
 しかし、昨夜(10日)のI.Hさんは初日よりさらに美しい。クビ元の白いマフラーが映え、私にとっては、TEさん共々、スペシャル映像でした。屋上のバックにタワーを映す必要がない、ディレクターさんたちにも、私の趣味を理解してもらえたのかな(笑)。

 本当にいつも失礼しております。

                 敬 具

追伸 この手紙はI.Hさんを通じての報道ステーションへの投書と思っていただいて結構かと存じます。ストーカー行為するつもりは一切ありません。「ノー」、と言っていただければスグにやめます。ただ、お返事はなくてもいいですが、「ノー」でない方が私は幸せな気分になれると思いますし、視聴者モニターとしても番組に少し、貢献(?)できるかも知れません。

2007年1月11日

残り福の日に





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沖縄コンベンションセンターへの回路(2)


 

拝啓 I.H様(その2)

 あっという間にひと月が経ってしまいました。世界的な温暖化現象によって、今年は吉野でも昨年のような凍てつく日が少ないようです。ただ、寒暖の差が激しすぎて、私のような持病と気管の弱い人間には、それなりに予防が必要になってきます。数年前から出だした花粉症はあまり出ていないので、助かっていますが、外出が少ないせいでもあります。
 先日、小説の第一稿をお送りしましたが、プリンタの不調で、とんでもない、分裂症のような印刷物が出現して、ごめいわくをおかけしました。
 先日は特集で専門家の方が地球温暖化の事情について解説されておられましたが、ここまで極端なのは困りますね。
 その間に関西テレビの『発掘あるある大事典』の捏造問題や閣僚の不適当発言、「そのまんま東」運動を私なりにやって成果に、少しは寄与したと自認(笑)している宮崎県知事の東国原知事の誕生。北九州知事の勝利。愛知県知事戦では、極力、ヒッキーの歌を聴かないようにつとめるなど、何となくやってみましたが、結構、自分の想定した結果が出たりして驚いています。
 個人的には、自分の能力不足もあり、なかなか自分の思うように社会に復帰しにくいのが、悩みといえば悩みではあります。しかし、いろいろなものをうっちゃって「自由」を手に入れた快感は、お金の不足意外は快適なものであったのも事実です。

 いずれ、チャンスをいただけるかどうかは別として、小説の続編を書きますが、その書き出しの構想は決まっています。私が七年間勤めた会社を辞めて、何を一番感じたのかと申しますと、「自由」について、考えたことでした。私はその作文をある番組企画で募集していた、関西のテレビ局へ投稿し、発表する機会がありました。その内容の控えが、日記に偶然はさんでいましたので、ここに記しておきます。これはもちろん、TEさんにも、読んでいただきたいもので、小説の書き出しに大きく作用します。
 そのテレビはK局のナイトパンチという深夜放送で私の発言時間は30秒か一分だったと記憶しています。しかし、当時、カメラリハーサルがあるなどということを知らずに、私は友達より早く局へ着き過ぎたので、勝手に私ひとりで食事に行き、カメラリハーサルに本人がいないと、騒ぎになったことがありました。
 その時思ったのは自分が退社して当日観客としてスタジオ参加した友人意外に知らせていなかったのに、その深夜放送で私が出ていたことを、いろいろな人か見ており、翌日以後に「〇〇さんテレビ出てたな!」言われて驚いたものでした。
 いま、テレビ電波を見ることによって、あなたのような素晴らしいアナウンサーのファンになるなどの原型はこのときにあったのかも知れません。

投書内容の原文は次のようなものでした。

《「自由について」

「自由」は大海に浮かぶ小舟のようなものである。どこにも頼ることのない不安定な状態である。しかし、その状態になってこそもっとも自然なのである。一体、人間はいつの間にこの喜び、不確かさを忘れてしまったのであろうか? 波に浮かぶ小舟はときにはおしあげられ、前のめりになり、斜めになったり、さかさになりかかったりするが、結局は元の位置にいることができる。それを見ると、自由とは奔放という言葉にこそふさわしい状態であるようだ。波に浮かぶ舟はちょっとした冒険心と恐怖とそれを耐える力と、それを乗り越えたときの平和な喜びを誰よりも強く得ることができる。自由という名の切符は大海の小舟にこそふさわしい様である、とかんがえるゆえんである。》

 私はそろそろこの大海の小舟から難破する前に脱出、上陸しなければならない時節が来ました。みなさまのご支援や運があれば〝一陽来復〟がそろそろあってもいいのではないかと模索しているのです。しかし、I.Hさんにおかれましては、ときどきの青いLEDのイルミネーションや東京タワーの背景があなたの魅力を引き出す魔術のようで、いつも楽しみにしております。

 寒暖の激しい季節、仲間のディレクターさんやAさんやKさんに比べて、圧倒的に露出は少ないですが、I.Hさんの魅力を知らしめる「勝手連応援隊」としては、さらなるご活躍を期待しております。

敬 具    

2007年2月10日



拝啓 I.H様(その3)

 昨夜、途中まで書いた文章がどういうわけかパソコン上から消えてしまいました。トラブルがあったようですが、書いた内容は覚えています。が内容は少し変えます。
 橿原市の今井町に行き、今井まちなみ交流センターの夢甍(ゆめいらか)と命名された旧高市郡の役所跡に行きました。で、自習室のような設備があれば、少し書き物をしたいと思って行ったのですが、そのような設備がなくて、今井町を散策することにしました。
 橿原市にある今井町は、「大和の金は今井に七分」と言われるぐらい栄えたそうです。「重要伝統的建造物群保存地区」になっており、東西600メートル、南北310メートルあり、江戸時代には南大和最大の在郷の町となり自治的特権も与えられていたということで、その遺物や豪商の建造物が多く重要文化財になって保存されています。町の整備も進み、外観的には江戸時代の街並みが再現されたような感じです。造り酒屋や醤油屋さんなども現存しており、往時を偲ばせてくれます。三百年前の長屋も現存しており、そこの建物の一部を改築して、数店の店ができていますが、火曜日ということで定休日になっていることもあり、天気晴朗なれど風が冷たいので、観光客も少なかったようです。しかし、タイムスリップする町並の維持には、地域住民の理解なくしてありえないことを感じさせました。
 以前から断片的には何度も通っているのですが、昨日のように歩きまわったのは初めてでした。歴史街道で紹介されたこともあり、もうあまりこれそうにないので、つい足が止まったのでした。
 本日はメンズ・デーを利用して『蒼き狼 地果て海尽きるまで』と『さくらん』の映画を鑑賞してきました。映画については、少し野心を持っていますので、最近はこまめに映画館に通っています。前者の映画は事前にモンゴル高原での4か月に渡るロケを敢行し、しかもジンギス・ハーンの即位式では二万五千人のエキストラの参加があったということを知っていました。日本映画のスケールということでは、『グラディエーター』(ローマの剣士とローマ皇帝)や『アレキサンダー』に匹敵するスケールを感じましたが、親子の宿命を扱うという内容には、私は正直にいうと、宣伝広報ほどの感動はありませんでした。つまり歴史劇としていつの間にか遊牧民のジンギス・ハーンが日本歴史的な鎌倉時代を思いだすような響きになりすぎて、遊牧民のモンゴル統一、およびアレキサンダーのように広大な帝国を作るイメージがあまりできなかったのです。
 細かい感想は多々ありますが、スケールと言う点については異論はありません。角川春樹さんだからできた映画と感じております。

 『さくらん』の方はこれは想像通りの秀作だった。もう、土屋アンナの花魁ぶりに「あちきもとりこになりんす」ということで参りました。蜷川実花さんの美的感覚も新鮮だし、大道具の色彩にステンドグラスが多用されており、ふすま絵や花などの小道具ひとつひとつにも、ありそうな感じが描かれて新鮮でした。金魚に象徴される吉原の時代背景も新解釈で描いていたし、何より椎名林檎のロック音楽におさまる吉原が魅力的でした。
 以前、フランキー堺さんが生涯の仕事として確か『写楽』をテーマに吉原を描き、そのときのヒロインが記憶が正しければ葉月里緒奈?でした。絢爛の舞台装置としては、原作の『さくらん』の漫画のイメージに土屋アンナは監督の蜷川さんもいっているように「言いたいこと言って、こびない。漫画から抜け出してきたようで、彼女しか思い浮かばなかった」という記事を見たことありましたが、私も同意見です。『どろろ』でも、赤ちゃんも食べ男をたぶらかせる妖艶な化け物の役をこなしていましたが、二十歳過ぎの女性とは思えない迫力でした。ベルリン国際映画正式出品作品という根拠もわかるというものです。
付け加えれば『下妻物語』のヤンキーぶりも良かった。

 私には、いずれ時節が来れば、小説でこの遊女の世界や風俗の世界をかなりリアルに書きたい衝動があるのです。かなり個人的な事情で……。
 本来は一日二本立てというのが子供のころはたくさん上映されていたのですが、いまは、時間差で見なければなりませんでした。

 奈良橿原にある映画館の駐車場からは、夕焼けの二上山や竹内街道、葛城山や水越峠から金剛山までみごとにパノラマになって見えます。突然、黒い雲が低く垂れ込め、山並みに映える部分だけが帯状に茜色に染まりだしたものですから、思わず、携帯のカメラのシャッターを押しました。本当は左のドアーミラーに映った二上山がもっとも幻想的できれいな絵画のように配置されて見えたのですが、残念ながら、携帯のカメラでは光が反射して捕らえることはできませんでした。

 いよいよ、東への旅への時節が来ました。何ができるかまったく不安ですが、自分で決めたことなので、生き抜いて行けたらいいな、と思っています。そういえば、『さくらん』に咲かない桜の木にひと花、桜が咲いたシーンがあり、日暮(ひぐらし)演じる土屋アンナがある行動をしました。自分の想像力にイメージが何とか追いつけたら、素晴らしいのですがね。
 
 これからも、報道ステーションの天気コーナー楽しみにしております。長く、紅葉の京都のお寺の写真を掲載されていたのを見てから、ホームページは見ておりませんが、今後も楽しみにしております。

                                                         敬 具

2007年4月24日



                 
拝啓 I.H様(その4)

 映画「あかね空」を見たのは、先週の木曜日でした。京の豆腐職人が江戸の深川で豆腐作りをするために、上京した。その地深川で中谷美紀演じる娘と親しくなり三人の子を授かる。京の豆腐作りを認められて繁盛したが、長男が博打にいれこむ。さて、ということだったが、人情話に永吉とおふみの夫婦愛がこれ以上ない理想系の出会い、波乱の展開があり、最後は夜明けのあかね空が彩る。

 中谷美紀が三人の子供を産んだのに老けない母役を演じるのは、映像美ゆえのことなのかどうか知らないが、永代橋のCGなどに、現代の映画作りの技術を感じた次第です。博打を仕切る親分が永吉扮する内野聖陽さんと二役というのも趣向なんでしょうが、案外、庶民の日常はいまも変らないのではないかと、ほっとする映画ではありました。
 『ロッキーファイナル』は次の日に観ました。実はロッキーの一作目には、大きな思い出があります。いずれ小説で書きますが、私が三〇年前、ある劇団に影響され、その機関紙を勝手に作り、ロッキーについての感想を少し書いていたからです。
〝青春戯評〟と題した寸評をイラストに少し、皮肉の文字をちりばめて、青臭いことをしていました。

《アメリカはチャンスの国だ。
 無名のやくざボクサーロッキーは世界ヘビー級選手権の挑戦権を得た。あらすじを語るのはよそう。それよりも、映画におくられたあの拍手について考えてみたい。ロッキーがチャンピオンからダウンを奪ったとき、(映画館に)大きな拍手が起こった。驚いたな。幼き日、月光仮面が悪漢の前にあらわれると、場内に拍手が生まれた。あの拍手とどこかにていて懐かしい拍手だ。あれは。世の中つまらないことばかり、ロッキーの登場に多くの若者がひとときの夢を託す。その心が投影された拍手なのだろう。それにしても、立錐の余地ない熱気の中で映画が観られる現象はいい傾向には違いない。否、だけどそれだけなんやな。あとに何も残らん。何にも解決することあらへん。夢か現実か、現実か夢か――ロッキーは若者のメルヘンになっているのか。あの拍手の耳障りはしかし、もう一度聴いてみたい気もする。(略)》のようなことを書いていました。

イラストには《15ラウンド闘いぬくことに、ロッキーは永遠の愛を賭けた。結果→モウカッテしょうない。ホンマ。なにしろ、アメリカはチャンスの国やさかい。日本だってネ! 石松さん!》

 石松さんはガッツ石松さんのことです。ロッキーファイナルは団塊世代の応援歌になるかどうかは、私にはわかりません。人生の過ごし方が人それぞれですし、人は挑戦することには、疲れている気がしますから。
 私自身は十数人の観衆の中で『ロッキーファイナル』を観るのは設定的に面白くなかった。フィラデルフィア美術館を駆け上がるロッキーや生卵飲むロッキーなどに懐かしさを感じはしたが、やはりボクシング映画は大観衆の中で観たい映画ではありました。

 天候の不安定が思わぬ朝夕の寒さをもたらしましたが、大峰のあかね空はまだ、見ていません。明日、明後日ともう残された日々は少ないですが、あかね空を見たい。視界は広くありませんが、大峰の頂上付近はつい最近まで白く輝き、朝焼けはうまくいけば、あかね色になるはずです。

 十六年前引越してきたとき、東南に大峰のシルエットが描かれたとき、何度もため息ついたことがありました。あの、あかね空は記憶にしか残っていません。もちろん、映画『あかね空』の映像美も絵空事の世界です。
 先日、とある週刊誌で、各局の女子アナウンサーのランク付けをしていましたが、あなたの名前がでていなくて、良かった。そういうことと無縁ということにはならないでしょうが、マイペースでお励みください。
 私は環境が変り、テレビを見る機会があまりなくなるかも知れませんが、何かの機会に見ることができれば楽しみが倍加するということです。
 これも〝秘すれば花〟でした。

2007年○月○日
                                                         敬 具


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沖縄コンベンションセンターへの回路(その3)




森ビル界隈のテレ朝に柔らかい言葉で、「報ステ」に接したの手紙

 早いものでもう、相模原に来て5年目になる。そのアプローチはテレ朝「報道ステーション」にあった。かくも長いメディアとの攻防になるとは、思いもしなかった、ただ感じるままに高橋尚子の高地トレーニング帰国後のレースに危惧を感じ、松岡さん、そんなに言って大丈夫なのと思ったものだ。それがQ様へ倉敷からおみやげの針金細工のブローチなどを贈ったきっかけです。

拝啓 TE様(その1)

 2007年の報道ステーションでいきなり、東北楽天の田中選手の自主トレを取材されておられましたが、今年も元気なTEさんが見れてさわやかな気分でした。年末年始の特集いろいろ出演されておられましたが、あなたのでしゃばらない、ポジショニングは私がいつも好感持つところです。タレントさんや俳優さんの魅力を陰からそっと覗き込むような視線や映像も実は好きです。私のような正統なTEファンというか視聴者は、どこにいるの、「ET!」と映像を探し回る魅力がある(大げさですけどね)。

 同封のお札は正式名称が武内式社(ちょっとあやふや)葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)通称、一言(いちごん)さんと呼ばれ、年末の冬至の日から翌年の節分までの日にお参りをして、大きなお札はその年の恵方の方角に向けて家の部屋のどこかに貼り、「一陽来復」を願うという神社のものです。葛城氏の郷に位置し、幼武尊(ワカタケル・倭の五王の武に比定される)の時代に由来する古い神社だそうです。といっても、創建は室町時代文明14年(1482)です。

 昨年は冬至のお参りは一身上の都合でできなかったのですが、9日に近所まで行ったのでお参りに行った次第です。
 この神社は一言さんというだけに、吉野神宮参拝や橿原神宮参拝のように長々と願掛けできません。そこで何の願いことしようかな、と思っていたのですが、この後におよんでひと言、二礼二拍の後〝○○○〟とカタカナ3文字言ってしまいました。ヒントはガンダム? 自分でも一礼してから、なぜかニヤニヤしておりました。
 それから大きなお札一枚と同封の小さな「一陽来復」のお札をいただいたのですが、TEさんにもお見せしたかったので、余分に貰ってきました。

 9日の夜は報道ステーションを見ることができませんでしたが、10日はほとんど見ました。ショートカットでイメチェンされて、ロッテの大嶺選手の取材ですか。今年は若手路線?で、各局の女性スポーツアナが多くなるのでしょうかね。私は、今年も、野球に関係する仕事が続けられるチャンスがあるなら、東京ヤクルトスワローズ、すなわち神宮に関わりたいのですが、テレ朝の方針が違うならあまり、そのことは公言しないようにします。それが自分の経験を試す一番のチャンスではないかと、考えています。

 私はタイガースのファンですが、今年は折角積年の重荷ことから解放されたのですから、仕事でタイガースに関わることはないようにしたいと思っています。健康上のこともあり、残された人生は短いわけですし、こと、ここにおよんで、この自由になった解放感をすぐになくしたくないのです。

 それで崩壊すれば、極端に言えば、それも人生と思えるのです。もちろん、自閉症の息子がいますから、そうならないよう着地したいと、思っています。喋りだすと、ついひと言もふた言も多いから、誤解を招き、理解してもらえないかも知れませんが、理解する努力はしています。いろいろな人や団体が確かにサブミリラル効果を狙っているのはわかりますし、ある程度は協力しておりますが、正直、疲れます。

 あまりそれをやられると、私の一身上の言動が思わぬ、事件や国際政治状況に及んだような、感じになり、誠に個人的状況以上に悲しいことになり、不快な気分になります。もちろん、単なる偶然と思いますが、そうでないようなことも感じられるから、嫌な気分になるのです。

 そういう事件が少ないことを願っていますが、報道される事件は次々と理解し難いことが多いです。

 ところで、昨夜(10日)、新年初の松岡さんの特集を拝見しましたが、相変わらず、一流アスリートだった経験を活かした松岡さんのレポートは熱いので、見とれました。しかもシンクロの女王が再起する。短期での復帰は前例がないそうですが、世界選手権で勝つのかどうか、本当に楽しみではあります。松岡さんには、過分なお世話になり、お返しをしなければならないのですが、どうするのが一番いいのか、わからないのです。このようにお手紙書くことがいいのなら、まずは、そうすべきでしょうか。TEさんに人生相談している場合じゃないですね。
 
 いつも失礼しております。私はもともとひとりの寂しさに慣れていますが、報道ステーションの二人娘?(失礼)には、こうして手紙を書くことでつながっていたい。沢尻エリカが映画『手紙』で言ってた。
「〝手紙〟ってむっちゃ大事なんやで!」
 小田和正のメロディーが長い間、頭に残ったものでした。私はTEさんやIHさんを通じて、それを試しているのかも知れません。

                                                          敬 具

2007年1月10日



拝啓 TE様(その2)

 報道ステーションで、宮城や久米島などあちこち少ない休暇を返上してご活躍しておられる様子を拝見して、若さと健康は改めて、かけあいのないものだと思わされます。先日、お送りした小説はプリントトラブルもあり、分裂症の文章が並んでおみぐるしかったと存じますが悪しからずご了承ください。
 また、最近関西でも見るようになった「愛のエプロン」でのASさんとの対決?は大変見ごたえがありました。勝った、負けたなどは、好みが大きく作用するので、たいしたことではないのかも知れませんが、調理や料理の腕があれば、黄金伝説ではありませんが、たくましく生きていけるのではないかと、存じます。あのときのカレーでは、私はASさんのカレーを好むと思いますが、単純な好みです。それは、チョコレートで有名ブランドや昔一度だけ高級ウイスキーボンボンのチョコレートを貰ったことがありますが、私の好みからいえば、長澤まさみからロッテガーナチョコレートを箱ごと貰った方がうれしい、というようなものです。
 もし、義理チョコをいただけるような幸運に恵まれれば、私はロッテガーナチョコが一番なのです。もちろん、食べた事のない高級チョコを貰う可能性はありませんから、それに糖尿ですし、少しずつしか食べられません。
(中略)
 
 キャンプたけなわですが、大阪国際女子マラソンで渋井陽子さんが、惨敗したのは、残念でした。高橋尚子さんが昨年の東京国際女子マラソンで負けたときと同じような感覚が私を襲い、何とか、取材環境に行けば少しでも状況改善に役立つかも知れないと思ったのですが、果たせず、悪い予感が的中しての敗戦は残念としかいいようがありません。

《大阪国際女子マラソンが長居陸上競技場で行われた。私の危惧したことは、記録的には図抜けている、渋井陽子のへの不安だった。私は今年に入り、何度も長居陸上競技場の姿を思い浮かべて、渋井陽子の姿が先頭を切って帰ってくるかどうか、シュミレーションしたが、どうしても、その映像がイメージできなかった。それは、高橋尚子が土佐礼子に負けた東京国際女子マラソン以上に、不可解な直感があったからだ。テレビの特集では渋井がいかに中国の崑崙で鈴木監督と素晴らしい調整をして帰国したかを報道していました。
 この大会で優勝することを既定路線として、世界選手権で同僚の土佐礼子と一緒に大阪のマラソンコースを走る姿を想像させたが、私は「すぽると」を含む番組がそれを強調するほど、渋井陽子が「こけてもしらんよ!」という思いにかられた。そのために、暇があるので、産経新聞社の知人に報道の取材現場に行けないものかと、打診したが、残念ながら、連絡がなかった。それでも、自分の感覚の中に渋井陽子がゴールするイメージが描かれなかったので、再度、マラソンの事務局の広報などに電話して、フリーライターの報道現場への取材が可能か問いあわせた。夕刊フジの知人にも取材現場へ行く方法がないか、問い合わせをしたが、結論的には発表媒体との契約がないとだめだった。確かに、それを押して無理に行かなければならない義理や理由はない。
 私は前日、「すぽると」が再び渋井陽子の崑崙での同じ映像を流し記者会見での様子を見て、(再度寝る前に渋井陽子がゴールを切る姿がシュミレーションできるか、試してみた)が、まったく、イメージできなかった。
 前日の朝には、そういうこともあり、今日は、マイクロソフトカップのサントリーの試合を花園へ見に行くつもりだった。しかし、一度目が覚めてから二度寝したら、昼を回っていたので花園行きを断念した。
 トーストの食事をして、マラソン中継をつけたら、レースは15キロになっていた。私は、渋井陽子が勝つなら、ぶっちぎりのスタートからの独走をイメージしようと試みていたが、京セラの原裕美子がぴったりと付いていた。
 この姿を見てやばいと思った。途中、鈴木監督が「このまま、強気で逃げ切り」を予想していたが、折り返しを過ぎ、明らかに渋井陽子に変調が見て取れた。原は楽に渋井に並走するようにした。渋井が後につかれるのを、いやがっているのは明白に見えた。
 大阪城内での周回道路で渋井陽子の上体は大きく揺れていた。解説者は興味を持たすために、その変調を強調しなかったが、29キロで原がスパートというほどスピードを上げていないのに、渋井陽子との差が一気に開いた。渋井の惨敗を確信した私はCMタイムに裏番組にチャンネルを合わした。
 再度、中継を見ると、今里通りで小崎まりや初マラソンの加納由里にも抜かれていた。渋井の足に異変が起こり、一度は立ち止まっていたという。
 結果は書く必要がない惨敗だった。故障上がりの原裕美子が二時間二十三分台の好成績を修めて勝つことがなかったら、世紀の凡戦になるところだった。
 テレビ中継は、早々に原の優勝の月桂樹をかぶせ、益田明美と小倉アナのインタビューで場をつないでいた。渋井陽子は後続のランナーに次々追い抜かれたが完走したようだったが、私は完走を見届けることなく中継のチャンネルを切った。
 私は高橋尚子と渋井陽子の二度に渡って、優勝のイメージができないことをつよく感じて、そのための方策を自分なりにやろうと試みた、しかし、結果は最悪に出た。
 これは多くの偶然と私の中のイメージトレーニングの必然が合致した結果だった。
 しかし、そんなことを主張しても「馬鹿なこというな!」といわれそうなので、これからも最小限に止める。
 
 渋井陽子が北京オリンピック代表に再起できるかどうか、高橋尚子同様、前途は厳しいと感じた。渋井陽子に必要なのは、イメージトレーニングなのだ。高橋尚子にも同様のことを感じた。
 野口にはそのイメージがあるように感じるのはなぜだろう?

 断っておくが、鈴木監督の指導に問題があったとか、言っているのではない。渋井陽子に必要なのは、実技トレーニングに加えて、シュミレーションなのだ。と少し生意気に分かったようなことを書いたが、渋井陽子の才能が開花するかどうか、日本の女子マラソンの財産という視点からもこの惨敗を検証する必要があるだろう。
 本人の絶好調宣言の中に、負の遺産がどこに潜んでいたのか? 
「マラソンに限らず、勝って、当然の重圧で勝つのはむづかしい」というところにヒントはあった。
 テレビ局が繰り返し、サブミリラル効果で訴えかけた映像もむなしい結果になった。
 「すぽると」よ!
 オレは貴局がしつこく流した映像に絶望的な惨敗の危惧を感じたことだけは強調しておきたい。
 偶然が何度も重なると必然になることもある。なぜかは本人もわからない。
 スポーツの場合、具体的な成功イメージを映像で浮かぶように試みる。自分のことはなかなか冷静にシュミレーションできないが、私の重要課題については、しっかりシュミュレーションは途中までできていた。
 この途中までというのが曲者だったけれどね。》

 TEさん。私は今年もしプロ野球の仕事のチャンスがあるなら、東京ヤクルトスワローズに一番関心があります。タイガースのファンであることはまちがいありませんが、その他のスポーツや新しい仕事にも取り組みたい考えもあります。いま、
「自由」から、上陸を模索しています。あなたへのレポートが、私の社会復帰への一助になれば大変うれしく存じます。


 報道ステーション、愛のエプロン他でのご活躍を祈念しつつ。自身の「一陽来復」
「笑門来福」を信じて。                                       
                                                       敬 具

2007年2月10日



拝啓 TE様(その3)

 メディアにはメディアの事情がるとはいえ、世界ノルディック選手権での団体銅メダルは素晴らしい結果だと思いました。私が鍵を握る選手に伊東大貴選手の復活を期待しておりましたが、2本目の130メートル越えジャンプで後の葛西選手につないだことは展開的にも、私の思い描いた筋書き通りで痛快でした。しかし、実はノルディック世界選手権がその後も距離やノーマルヒルなどの競技が行われていることを知ったのは、他局のスポーツニュースや新聞などの結果でした。ラージヒルと最初の中継のある夏目選手の距離競技以外には、日本選手の活躍舞台がなかったということだと理解しておりますが、これは、〝世界ノルディック選手権〟のメーン中継?を喧伝していたテレビ朝日としては、同じ大会がまだ、行われていないかのような扱いは、一視聴者として考えれば、不誠実ではないか、と思わざるを得ません。ノーマルヒルは伊東選手だけが最終2回目の試技競技に残り順位も20位に低迷していたようですが(3選手は2回目に進めなかった)、だけどノーマルレベルの成績では報道するに足りない、というふうにも取れる、ちょっと不誠実な対応ではないかと考えるのは、多分間違っているのでしょうね。
 野球のオープン戦も始まり、MLBの松坂大輔や井川慶や松井秀樹のニュースもある。世界水泳キャンペーンもしなければならない、メディアの方針は貴局に限らず、割り切りの良さはスゴイので、別に驚く視聴者のど素人のわたし方が間違っているのかも知れないのですが、違和感をいつも感じることです。昨年のF局メーンのバレーボールも国内の予選までは連日のテレビ局型演出手法で盛り上げていましたが、イタリアの決勝大会行くころには、よほどのバレーボールファン以外は、そんな大会があることすら忘れられる存在でした。その流れから一転、T局が行う世界選手権では、バラエティにまで大会直前の選手を出すキャンペーン。世界のバレーボール協会は日本で行う大会は規模的にも営業的にも、利益というか利潤があり、大歓迎で協力するそうですが、メディアが必要以上に演出過剰になる傾向はいかがなものか、と感じずには、いられませんでした。
 逆にいえば、目玉選手の放映さえできれば、後の結果は知らないという、無責任さともいえるのではないか、と感じないこともありません。
 昨夜(6日)夜、BSで苗場でのワールドカップのモーグルの録画をやるというので、思わず見入ってしまいましたが、上村愛子のケガからの復帰もワールドカップの日本の大会ぐらいでは、ニュースにもならないようですね。男子で3位入賞の選手が出ていましたが、このような大会はいつ行われていたのかも、よくわかりません。
 日本の各局のメディア事情の反映ということでは、これでいいのかも知れないのですが、関わったテレビ局は放映はされなくても、なんらかの結果報道があってもしかるべきではないか、と思うのは私のようなもの好きだけなんでしょうかね。

 思い出すのはオリンピックのミュンヘンだったかの大会です。バレーボールといえば、女子のニチボー貝塚や日立の単独チームが全盛の時代にあって、森田、大古、横田やセッター猫田の活躍で2セット連取された準決勝戦ブルガリアを逆転して破り、その勢いで金メダルを取った試合です。セッターの嶋岡投入やこういうときのためにベテラン3大会出場の南を起用するなどの采配で奇跡の逆転した試合です。
真夜中の中継を興奮して見たオリンピックのことです。そのとき、ひとり時間差を考えた森田や、松平監督らが時間差攻撃などを創作したけれども、東京五輪銅メダル、メキシコ五輪で銀メダルを獲得しているけれども、松平監督と選手たち意外は、優勝金メダル取るなどなど、夢思ってはいなかったようです。だから、真夜中の中継に興奮した人が多数でたのではないでしょうか。 
 果たして、福岡を蹴散らしてオリンピック招致にまい進する都知事選挙も間もなく行われます。来年の北京オリンピック後となると2016年ですから、アジア開催がそんな短期間に行われるのかどうかも問われるようです。ご存知のように大阪はもののみごとに招致合戦に惨敗しました。ベイエリアのワールドトレードセンターには誘致キャンペーンのコーナーも作られ、展望台から大阪都心や大阪湾を一望できましたが、ソウル以来のアジアでの大会は北京になり叶いませんでした。
 どうなるんでしょうね。いろいろなメディアの思惑がオリンピックに限らず、大会規模が大きくなる一方だという感じは否ません。
 かつての東京オリンピックお宅も歳を重ね、あのときほどの興奮はもう、ないかも知れないですね。
 世界陸上でも男女共、マラソン代表選手の目玉が出場資格を逃し、オリンピック出場に絞り込むようですし、大阪での世界陸上も印象では、東アジア大会を少し、規模を大きくした陸上大会のような感じで報道されているようで、盛り上がりに欠けているようです。ボランティアは集まったのでしょうかね。二月二十八日に締め切ったときはまだ、足らないという報道もあったのですがね。
 T社のキャンペーンですから貴局はあまり関係ないのでしょうね。メルボルンの世界水泳大会こそが、最大の関心ごとだとは存じますが、やはり、バランス感覚も必要なことではないかと、考えます。

 もし、気にさわったらごめんなさい。TEさんに責任などないことですから。このレポートの目的は番組に対する感想が基本にありますので、聞き流してもらってもかまいません。報道ステーションの限られた時間での報道には、当然優先順位がありそうですからね。
 今後もご活躍を楽しみにしております。
 
                                                     敬 具
                                
                                
2007年4月24日



拝啓 TE様(その4)

 日本のプロ野球が盛んになるかどうか、いろいろな議論が出ているようですが、問題のドラフトにからむ話しなど、ウソかホントか調べる立場になかったけれど、私ごときの周辺にも噂話が絶えなかったのも事実です。
 実際、○暴の規制前後、○暴さんと知らずに付き合った感じになっていたこともありました。中学生やシニアの人材情報を教えて欲しいと言われたこともありました。また、そのような、仕事をする人の裏事情をそれとなく聞くこともありました。
 何が真実で何が不確かなのか、よくわかりません。
 世の中にはいろいろな裏もあるということなのでしょうか。
 
 プロ野球が始まり、確かに地上波の中継が少なくなった印象はあります。それだけ、バラエティ番組が娯楽の王者になっているのかな、という印象もあります。NHKがメジャー中継を増やすと、どこかから文句も出るそうですが、私には本当かどうかは知りません。だけど、昨日のボストンとニューヨークのような試合を中継されたら、やはりメジャーの野球は面白い。松坂が先取点を許し、ピンチから一転、不調のラミレス以下の4連続本塁打、3本でも珍しいのに4本目が逆転打となるのだから、展開的にも面白すぎる。
 松坂の強運とニューヨークの打線の破壊力、ボストンの底力に魅せられた感じでしたね。
 日本プロ野球も波乱万丈の展開の試合を多くして、盛り上げるのが一番ということを新ためて感じますね。
 あの甲子園TG戦での狩野恵輔はその一番手でしょう。
 いや、ファームで初めて二軍でデビューしたときのみじめな思いをしたときから観ていたから、七年目のさよなら安打がプロ入り初安打になるなど、想像もしていなかった。あの試合は延長十二回に巨人が3点入れ負けると思いラジオを消した試合だ。狩野が出場したことも知らなかった。
 報道ステーションの編集もすぐに間に合わなかったそうですが、こんな試合なら間にあわなくても大いに結構。それにしても、翌日の狩野恵輔は勝たしてやりたかったね。3打数3安打。次の日も九回に意地の2点本塁打。狩野恵輔には、迷惑かけた記事も書いたから、昨年の二軍の首位打者でついに、一軍のきっかけをつかんだということになったのは、うれしいね。
 他チームには狩野恵輔はノーマークだろうから、当分はいけるんちゃうか。とほくそえんでおりますが、投手が打たれると試合は負ける。打ち勝つ野球で、投手陣が立ち直ることが先決ですかね。Gは投打がかみ合い、昨年同様の開幕ダッシュ、質的には専門家の評する通り、チーム力アップしているようですね。上原、パウエルが休んでいて、この5カード勝ち越し、想定外ちがいますか。それでも人気ないのんどうしてですかね。
 私しゃ、ファイターズが守り勝つ野球ができていないのが、少し残念ですね。
 東京ヤクルトスワローズは、もう、相変わらず、先の読めない試合が多い。
 Fさん! Tさん。投球にもっと結果出してください。隠れキリシタンならぬ、隠れツバメファンとしては、辛い。それから、ライオンズ、強いライオンズにファンは愛情をいまこそこめて、球場へ行こう! といいたい。
 おいらは相模原に行って、中立型、野球ファンとして、気まぐれに観ていますが、交流試合までの順位が前半の焦点ってことですか。

 神宮にはハンカチ王子ブーム。東北にはマー君ブーム?
 北国にはダルビッシュがいる。

 オレはロワイヤルでカジノに勝つ?

 と、こんな風にはいかないのが世の中というもんなんですね。
 落ち込む日々は、できるだけなまけもんになって、おやじじゃないおじやをすすって、じゃまものにならない程度に世間をみながら、生きて行くのだ。
 TEさんにおかれましては、週刊誌の無責任風評など気にせずに、ご活躍ください。
                                                          敬 具

2007年4月某日





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沖縄コンベンションセンターへの回路(4)

 一の沖縄へのこだわりや歴史認識へのこだわりは鈴木武樹に学んだことが大きかった。彼は革新自由連合から参議院選挙に出ざるを得なくなり選挙に担がれたが落選した。しかも、その翌年にガンで急死するという一にとっては最悪のことが起こっていた。ブログの断片をこのコンベンションセンター行きのことを書くに当たって思い出すのは、民主党の失墜・自滅的裏切り消費税増税三党合意もさることながら、世の中の急転回の動きが加速してきたことに対する自分の行為が「なんでこうなるの」という統合失調症特有の被害妄想に思い当たり、疲れる世の中が現れたことが事実を直視せよ! といういわゆる文化人や作家たちやコメンテーターに流布され、それがあたかも事実のように報道するひとたちがいることへのイラ立ちがあったからだ。たくさんのブログを書いたが硬軟混ぜた中、硬派の部分はやはり、一が思い描く「日本国」の連綿と続いてきた歴史認識だった。


2012年09月22日
3年前の記憶。多様な戦いの夢想と「ドン・キホーテの幻影」


救うために変える。変えるために戦う。さらば民主党、さらば自公「別れの手紙」ふたたび。安室奈美恵生誕35周年の決意!

 野田が代表に再選された。予定調和の展開だが、彼等の三党談合の根拠が実は根本からあやしい。ひとつは消費税増税の根拠、2つ目は談合の根拠、3つ目は再稼働の根拠。しかも原子力規制庁の人事。規制委員会が原子力推進派で占められる根拠。すべてが、ジョセフ・ナイやリチャード・アミテージのミッションだというのなら、「政権交代」の根拠もへちまもない。で、自民党は総裁選挙だ。どこもいらんわい。橋下さまブレーンから古賀茂明や高橋洋一氏らが逃げ出したらしい。賢明なことだ。優秀な才能を「国民の生活が第一」の小沢一郎に提供してもいいのではないか、このご時世が求めているかも知れない。


 いまから、30年も前のことを振り返るのは、死んだ子の年を数えるようなモノだとは思いますが、「言論の自由」はいまより、多様で鋭く、いわゆる市民運動などや諸先生方の運動にも、圧倒的に市民を巻き込むパワーがあった。しかし、いま、小沢おろしの国家権力の横暴が許される土俵には、権力側の自浄能力がもはや、期待できないことを露呈している。

 まず、最低限の歴史認識から始めよう。オレの手元には『古代史の魅惑と危険』(鈴木武樹(たけじゅ)・亜紀書房)が手元にある。

 1977年4月5日第1版発行だ。著者の鈴木武樹教授は1934年生まれ、当時は明治大学の教授(ドイツ文学・ジャン=パウエル)研究家であり、翻訳家、エッセイストとして膨大な著作を出していた。しかし、オレの住む相模原図書館には氏の蔵書は一冊も検索してもなかった。オレの考える以上に事態は悪くなっている。

 鈴木武樹は当時だけで『わたしの古代教室』(新人物往来社)、『日本古代史99の謎』(産報)、『偽られた大王の系譜』(秋田書店)、『地名・苗字の起源の99の謎』(編著、至文堂)
『地名・苗字の起源99の謎―あなたの祖先はどこから来たか 』(産報) /鈴木 武樹 (著)/『消された「帰化人」たち』(講談社)、『わが夢想と戦いの日々』(風媒社)、『共和国を夢見る論理』(すずさわ書店)、『元号を考える』(編著・現代評論社)など膨大な著作を専門以外の分野でも発表し続けた。
『激論!日本古代史』 [単行本] / 鈴木 武樹, 和歌森 太郎, 江上 波夫, 山田 秀三, 肥後 和男, 松本 清張, 三宅 俊成, 水野 祐 (著); 成甲書房 (刊)

 また、'72年に始めた『東アジアの古代文化を考える会』では、「わたしたちは、日本の古代文化を東アジア史全体の中に正しく位置づけて理解するとともに古代文化研究の成果を専門家の手から市民一般に広く開放しようとするものである。」という趣旨で第一回は東京・深大寺に男女160名が集まってスタートした。当時は沖縄返還協定が5月に実施されたことが偶然かどうか、興味深い。

 オレは、この年、急速に何かに取りつかれたように社会的に目覚めたと感じた。

 前年の黄金週間にオレは、9日間の連休を社長に申し出た。思えば、社内勤務規定の原案作成もなぜかオレが担当したような、従業員が当時で50人にも満たない会社で、オレの申し出は前代未聞だったようで、社長は激怒した。「9日間の休み!」いまなら不況で「どうぞ!!」と首を切られそうで怖いので言い出せないけれども、当時、オレは会社の株主でもあったし、年間に2万円の配当を貰い、いろいろなイベントでは、高級酒や小遣い、あるいはオパールのネクタイピン(質屋に入れたが当時でも万単位貸してもらえた)を貰ったりしていたので、信頼が厚かったと自負していた。しかし、プラニング部門に配属されてからは、仕事もそこそこできたが、興味がどんどん広がっていた。上司から、毎日新聞社の主催する懸賞論文に共同で応募しようという提案を受け、『自然心理学思考』にまとめたりもしていた。そのような活動が社長にうとまれるというか、自分の手に負えない分野に活動を広げようとする知的好奇心に問題があったらしい。オレは社長に「〇〇クン、何考えとんねん!」と一喝され、連休の申し出は却下された。

 さて、本題は運動の多様性の活発化した時代と閉塞感のある現代とは明らかに違うということを感じているので、その事実を少し見てみたいのだ。鈴木武樹はすでに朝鮮語を学び、「日本語と東アジアの諸言語」を第一回講演テーマに選んでいた。『古代史の魅惑と危険』の解説を担当した当時の毎日新聞社、社会部副部長の原田三朗氏はこのテーマが沖縄返還協定と関連していることを記し、

以下引用

《〔日本国を相対化して考える鈴木武樹の思考方式からいえば、琉球は日本の一部なのかという疑問は当然のものであった。「沖縄返還」に反対する沖縄の若者たちを支援する鈴木武樹は、ここでも言語から問題にアプローチした。琉球語は日本語の一方言ではなくて、現代日本語とは姉妹語の立場に立つのではないか? とすれば沖縄と日本は対等の立場である、という政治的主張に、文化的証拠が与えられるのではないか、というのである。〕》

 当時、日本の起源そのものがまだ謎だった。したがって、日本語の一方言ときめつけるのは問題ではないか、と問いかけた。

 その帰結として、琉球語の専門家・外間守善氏をシンポジュウムに加えた。当時、毎日新聞社は「東アジアの古代文化を考える会」の講演記録を「古代文化シリーズ」として出版していた。オレはそのころから、少しづつ、単行本を買い集めた。翌年の7月に、「東アジアの古代文化を考える会」のシンポジュウム記録が出版された。『古代日本語の謎』(毎日新聞社)。

当時はまだ、小企業といえどもサラリーマンであり、自由時間が少しは取れる境遇にはあったが、日曜出勤のロケハンやロケ及び現場取材や立会いの仕事も多く、休みは少なかった。従ってオレは7年間勤めた会社を翌年の4月に辞め、遊んでいた時期だったので、著書を買うことができたのだった。

 以後、鈴木武樹は東アジアの「古代文化を考える会」を追い出されたが、「東アジアの古代文化を考える会」は運動体としての機能は停滞したが、オレのもっとも尊敬する故・江上波夫会長の講演を聴き感動して以後、オレは趣味で「東アジアの古代文化を考える会」の大阪講演会に出るようになった。

閑話休題

 それから、三年後の9月にオレはフリーとなり、自由の開放感とオイルショックによる不安な未来に船出したのだった。オレは7年勤めた会社を辞めたときに、「自由」って何なんだろうか、と考えていた。そして、何気なく見たテレビの深夜番組にハガキ一枚にまとめて、応募した。(この自由の内容はたびたび一が書いている通りだ。略す)

 思えばこの考えに取りつかれて以後、オレはまさに、高校時代に「ラ・マンチャの男」よろしく、ドン・キホーテに憑依され、いま団塊世代の青春の尻尾と青年の日々の甘く切ない恋愛体験をひきづり、統合失調症という名の妄想の日常を経験することになった。

 ところで、76年から77年にかけて、市民運動やいろいろな政治課題について、実に多様であったことを、オレの手元にたまたま手にした案内だけでも、感じる。

 たとえば、ロッキード疑獄をきっかけに『週刊ピーナツ』(ロッキード問題共同市民デスク)が発行された。また、その新聞は単行本として合本もされた。また、77年参議院議員選挙では革新自由連合から、鈴木武樹教授が出馬(オレは鈴木武樹の著書に限らす、古代史関連の著書はほとんど目を通していたので、当時、借りていた小さなビル? のオレの個人仕事場からムシロ二枚をつなぎ、そこに和田誠さんのイラストを拡大してペインティング、垂れ幕のようにして応援したので、家主からいやみをさんざん言われた。)

 さらに、アイヌ青年参政協議会からは全国区で成田得平氏。何とその推薦ハガキは当時小田実とともにもっとも多くの著書で影響された本多勝一氏(現在・『週刊金曜日』編集委員)からハガキが長野県伊那谷から届いた。さらに〔吉武輝子とともに新しい運動を求める人びとの会〕からも資料が届いた。もちろん、日本共産党関連のハガキもあったが、手元にはない。が関連運動芸術団体の資料はまさにオレの人生の記録だった。

また、ピーナツ関連では、

〔『私の絶対認められない国会議員』を選ぶ・マイナス総選挙実施決まる〕というユニーク運動な案内も届いた。題して『マイナス総選挙実行委員会・東京クラルテ』が届いた。ピーナツ議員を国会に送り出さないことを模索しての運動体であり、

〔私達はピーナツ高官を許せない。国会議員を認めない。選挙区民さえつかんでいれば当選することに「NO!と叫ぼう!」と、「NO!」と叫ぶことで選挙の棄権という行為をひとつの力に反映されるような制度を作り上げたい〕という趣旨だった。76年の12月13日よりハガキで受け付ける。「私の認められない新衆議院議員」を1名記名で投票する。投票資格は一切無し(年齢。国籍・性格等不問)。もともとの運動体は〔「椎名」と対決する市民集会だった。〕

 77年の2月24(木)には、〔弾圧とたたかう反公害住民運動・全国集会〕のハガキが届き、福田=石原体制以後の住民運動に手錠をかけようという国策に対抗する集会が行われた。

 講演は宇井純、荒畑寒村で演題は「足尾に始まる弾圧と住民運動」。また水俣、佐賀関各地の住民運動から報告があり、場所は自治労会館(国電市ヶ谷日本テレビ前)だった。4月には、〔「反東大・反百年祭」集会〕の案内ハガキまで届いた。オレには直接そんなエライ大学関係ない。しかし、その運動の参加者には鈴木武樹も宇井純などとともに名を連ねていた。

以下引用

《〔この4月12日、東京大学は創立百周年を迎えるにあたり、「百億円募金」「百年史編纂」等の計画を推進し、当日には「記念式典」を予定している。だが、東大の歩んできた百年の歴史は、私たちにとって真に祝うべきものだろうか。

 1877年の設立以来、東大は常に私たちの前に支配者、差別者として表われてきた。現在、東大はロッキード疑獄に連なる政府高官たちの温床であり、反公害住民運動の前に立ちはだかる「御用学者」たちの溜り場である。その東大は、この「百年蔡」をもって、己れを反省する契機とするのではなく、さらに政・財・官界(筆者注、これに御用メディア、米国を加えて悪徳ペンタゴン)との癒着を強めようとしている。

私たちは、この「百年蔡」に対する抗議の意思表示として、「反東大・反百年蔡」集会を行う。ここに多くの方々へ、集会への参加を
よびかける。

主催:公開自主講座「大学論」実行委員会]》

場所は安田講堂。しかし、オレにはまったく直接的には関係なかったけれども、宇井さんを始めとした有志は理論だけに人ではなく実践的でもあった。また、次の日には〔「歴史の偽造を許すな!」〕と井上清氏の反東大公開自主講座も開かれていた。

〔「いまこそ世直しを市民連合」〕自衛隊の拡大阻止や「靖国神社法案粉砕・天皇元首阻止」など関西での運動案内も多数届いたものだ。

 翻って、いま「自公政権」は郵政民営化の闇を覆い隠し、西川社長の続投を決めた。郵政民営化問題は、植草一秀氏が学者の良心として、ブログにおいても、連日、問題点を書き、メディアの不当性を糾弾は悪徳ペンタゴンの政界・財界・官界の癒着に加えて、御用マスコミますこみ、外資(国際金融の米国)の手口を暴露しつづけている。しかし、小泉・竹中一派は開き直りこの後におよんで、「郵政民営化!」の掛け声を言う始末だ。しかも小泉は、息子・進次郎を後継者に立てた。

ネットではガセネタも飛び交い出した。石原の息子(伸晃)で、闘う! しかも橋下知事や東国原知事を内閣に。冗談も休み休みにしてほしい。彼らの得票は今度は伸びない。オレは創価=公明党を全力でつぶす。あらゆる〇〇〇芸能人のオレに絡んだ動きを暴露する。オレの息子に何をしたかも暴露する。これは、「政権交代」のための聖戦? 

「南無阿弥陀仏」・浄土宗信仰と八百万の神、および葛城山麓にある「一言神社」の神々を総動員して、「自公政権」の卑劣な手段に天誅のあることを祈願する。

 ところで、オレが最近信仰した「二神」大明神(法政大)は見事、日本大学野球選手権の王者になった。


 結構、当たるホッケの太鼓!こころして自公の弱みをつこう。新党日本の有田芳生氏、足代出してくれたら、いつでも応援集会にはせ参じますよ。都議会で自公におおきな顔させないためにも、「都はるみ節」で東京セレナーゼと参りましょう。保坂展人さん、石原ごときに負けるな。もう、裕次郎の企画ひとつつぶしました。奴らの手口にさせないために、交通費出るようでしたら、何らかの応援したいと存じます。

 気分は早く趣味に生きたいのがホンネですが、この後におよんでの悪あがきに、創価の名誉会長から見れば、「金平糖」つまり、こどものお菓子でしかないのだ。勝ちましょう。O代表など。頑張れ! 民社:社民;国民新党・新党日本・新党大地(鈴木宗夫)。日本共産党は独自路線だそうですから、都議会選挙ではせいぜい議員数増やしてください。ここで叩かないと、彼らは「東京新銀行」の口聞き疑惑はじめ、数々の不正うやむやにしかねない。その上、地上げ屋・石原都政の築地市場、豊洲移転問題に、ごり押し東京五輪誘致。無駄金でスイスまで行って、恥の上塗り、ここに極まれり。末期の禍根残す土壌汚染で鮮魚の取引。オレはイタイイタイ病や水俣病になるのは、やだ!!

都民の怒りはデモだ!! 6月27日

Like rolling bean (new) 出来事録様から

築地があふれた!!2009 壊すな築地 6.27 東京大行進II

2009/6/27(土)

 11:30に築地市場正門前集合、12:30スタート(雨天決行です)
気付いたらこんな時代のこんな出来事が・・・



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沖縄コンベンションセンターへの回路(5)



 一はあべの橋から伊丹行きのバスの中で携帯電話片手に喚いていた。旅行会社に電話してなんとか次便に乗れるように交渉していたのだ。
「わたしが時間勘違いして遅れたのは申し訳ないのですが、なんとかならへんでしょうか。いま、伊丹行きのシャトルバス乗ってるんですけど、間に合いそうになんですわ。やっと高速入ったとこなんですわ!」しかし、一の切羽つまった状況を無視して旅行会社の係員は、
「それは無理です。勝手に飛行機便とってください。もちろん、うちはお金払いませんよ」
「それはそうかも知れないけど、そこをなんとか頼んますわ。二人の代金はちょっと余裕ないんですわ」
「いや、そんなこと言われても集合時間に遅れたらそれはあなたの責任ですよ!!」
 一はシャトルバスの中でいつの間にか興奮して大声を発していた。それに気づきさすがに気まずくなり、
「ご迷惑かけてすみません」と息子の手を取り覚悟を決めて伊丹行きのバス中で座った。二泊三日のツアーだからしゃない、と臨時出費の覚悟を決めていた。現金の余裕がなくなるから、カードで支払うことに決めた。沖縄へのツアー代金もカード決済なので痛いがやむを得なかった。
 いつもなら伊丹への混雑いれても40分ごときはなんでもなかったのに、伊丹への時間が実に長く感じた。シャトルバスが停留所に着いたころには、予定の便は離陸していた。どうしようもなかった。とりあえず全日空のカウンターを探した。フライト予定の便は伊丹からの沖縄便はなかった。
一はとにかく全日空に事情を言って、関空からでも今日中に行ければいい、と開き直っていた。搭乗券は11月22日ANA便の那覇行きだったが、その搭乗券を見せ、交渉した。窓口に行くとなんと松岡修造さんがいた。一はそれがご本人かどうかなど考える余裕はなかった。
「あの、諸事情がありこの105便の11時55分那覇行きに乗り遅れたんですけど、なんとかなりませんか。関空からなら便があると旅行会社から聞いたんですけども、できればこのANA予約チケット番号で別便に乗れるとありがたいんですけど…息子が障害ありまして、出かける前にちょっととまどったんですわ。お願いします」

 一は懇願するしかなかった。松岡修造似の空港の係員は制服に身を包みどこにもスキがなかった。なぜか、キャビンアテンダントの武内絵美アナ似の女性が不自然に近くに立っていた。松岡修造は元テニスプレーで東宝の御曹司だ。しかし、自立を求めてスポーツーキャスターや「くいしんぼバンザイ」などにもでるタレント性もあった。しかも熱血だ熱い! それはときには、ついていけないノリになることもあるが、一は報道ステーションのキャスター松岡修造のレポートや担当司会番組などをよく見ていた。水泳にフィギュアスケートにマラソンにテニスにと幅の広いアスリートをカバーし、彼の熱血取材は好評だったが、一はときどき、松岡修造さん、この状態はまずいんじゃないの、とか思っていたこともあったのだが、いまはそんなことを言っている場合ではない。
「お願いします。聡明な皆様のご協力でなんとか沖縄に行かしてください。安室奈美恵のLIVEに行けないと人生のスケジュールが狂ってしまうんですよ。お願いします」
 すると、松岡修造さんとだんだんと確信を持てたのでこれはなんとかなるかもしれない、一は冷静になりだした。
「そうですか。ちょっとおまちください。調べてみます」と、手元のパソコンでなにやら打ち込み確認作業をしているではないか。
「やった!」と興奮を抑えて成り行きを待った。どうせ直ぐにはない。関空に行くシャトルバスにさえ乗れれば便はあるのだ。落ち着けと何度も自分にいいきかした。息子は何が起こっているのかわからず、ただ、横でボーッと立っていた。
「コウちゃん、もうちょっと待っててな! お腹空いてるかもしれんけども、あとでおにぎり買うからもうちょっと我慢してな! ハイは!」そういうと、息子はいつもの感じで「ハーイ」と語尾を下げた自閉症独特の発音で応えた。しばらくして、松岡修造さんは、
「今回は特別ですよ! 関空からの便がありますからその便に変更手続きしました。シャトルバスで関空に行ってくださいね」と、手持ちの航空券発券手続きのためになにやらコンピュータで手続き変更の操作をして貰った。一この一件以来、一貫して松岡修造さんに頭が上がらないのは、事実で、自分史小説を書きだした時、ひとりの読者の市川寛子アナと共に、成り行き上武内絵美アナにも読んでもらおうと書きだした物語は、当然、第一部は松岡修造さんにも送付したのはそういういきさつがあった。
 一のチケットは105便から関空発のANA便に変更されたが、航空券の確認をしたら、急に腹が減った。
一が申し込んだ沖縄ツアーはエアートーヨーの商品で「スーパーキャンペーン沖縄」の企画で11月22~24日の二泊三日、ホテルルートイン那覇泊り、朝食付きだった。航空便は決まっていて、ANAカウンターで航空券受け取り番号を提示すれば、発券されることになっていたのだ。当日の航空券受け取り番号を調べると、241 237 698となっていた。その頃はこういう数字を深く気にしなかったが、最近は当然の如く何かのメッセージを求めていることを感じだした。これもメディアを含めたサブミニラル効果だろう。売店で行きおにぎりを買った。なぞのキャビンアテンダントの武内絵美アナにも挨拶して、関空行きのシャトルバスの列に先頭並んだ。すると、なんとそこにはあの綾部の天文館の反射望遠鏡で見たベガさんがいた。一はまったく緊張しなかった。ベガさんは実に普通に話しかけやすい対象だった。
「関空まで行かれるのですか? わたしらも行きます。伊丹発の飛行機に間に合わなかったんですよ。息子もイラ立たないか心配しましたけど、幸い飛行機に乗れるとわかって喜んでます。実はね、沖縄行って、安室ちゃんのLIVE一緒に見る予定なんです。大阪城ホールでもLIVEがあって、息子と一緒に行きました。わからなかっても音楽聴いているのはいい機嫌で、ホッとしました」
「そう、よかったですね。楽しんでくださいね」
 ベガさんはもともと報道ステーションの天気予報を担当しているので、天気予報コーナー見たいために可能な限り報道ステーションを見てきた一にとって、難攻不落の砦のように感じてきた。新聞記事で気象予報士の試験に受かったことを知ったときには、АIちゃんのアルバムをお祝いにプレゼントしたことがあった。その後、ベガさんがある時期から出先に現れたりすることになるのだが、一はそんなことは想像もしなかった。遠い星だと思っていた。
 おにぎりを二人でほうばりながら列に並んでいたら、いつの間にかベガさんの姿が消えていた。一は(ありがとうございました。行ってきます)とこころでつぶやいた。涙がこぼれるようなうれしさだったが、うっちゃった。その後の決断は既にしていた。
 関空へのシャトルバスは湾岸線が整備されており快適だった。大阪湾のエリアを眼下に見下ろし、空はどこまでも青い。空気は晩秋の秋で冷たいが寒くはない。十年ぶりぐらいのひさしぶりの沖縄行きにこころは弾みだした。コンベンションセンターがあるのは知っていたが行ったことはなかった。いま手元の航空券半券の帰りの便のチケットだけが出てきた。そこには、「NAMIE AMURO LIVESTYLE2006」のチケットも同封されていた。沖縄コンベンションセンター 会場16時 開演17時
北スタンド G列60番・61番の連番だった。11月23日のことだ。


 関空まで着てしまうと後はフライトを待つばかりだ。一時間半ほどだからすぐだ。那覇空港へ息子と行くのは3度目だった。一度目はまだ2歳のときだ。二度目は小学生の低学年のときだ。安い夏休みツアーを探し二泊三日で那覇のビジネスホテルに泊レンタカーセットだったので、それであちこちドライブした。途中、海で泳いだりした。糖尿病になったので、一は早朝から那覇のホテル周辺をジョギングしたものだった。三度目がこういう形で迎えるとは想像できなかったが、この2006年という年は、自分の人生の節目と決めていた。息子を思うとき、なんとひどい親だろうと思われるのは確かだったが、一は自分で決めたことに悔いはあまりない。あまりという表現になるのは、自分本位な親としての引け目であった。
午後二時台の那覇行きの飛行機に乗車して久しぶりの飛行機を楽しみ景色を窓越しに何度も見た。あたり前だが那覇空港に近くなると、嘉手納基地が眼前に迫ってきた。いつものことだが、この緊張は伊丹国際空港の民家を掠める離着陸と違う緊張感が走る。那覇の市街地の鼻先にあのベトナムを空爆した基地がある。ジェット機が待機する世界がある。フェンスの向こうは日米地位協定に守られたアメリカがある。米兵の女性暴行事件がたびたびあってもいつも、泣き寝入りするひとたちがいる。日米地位協定に守られた兵隊は、罪の自覚乏しくひとときの快楽を経て、いつの間にか帰国している。こいいう理不尽な報道をたびたび聞くが、沖縄には日本の米軍基地の75パーセントがある。普天間基地の移設問題は決まったものの、その先が進まない。その一方で辺野古に移転という、理不尽な開発利権が横行している、そんなことを思いながら、西日がまだ高い那覇空港に着陸したのは午後四時ごろだったと記憶する。
着陸すればもう、こっちのものだ。那覇空港からはモノレールができていた。以前レンタカーを空港で借りたので、立派なモノレールが走っているのを知らなかった。宿泊予定の最寄り駅まで乗り、那覇に着いた。国際通り方面はさらに十分ほどあるかなけらばならなかったが、そっちの方向とホテルが逆の位置にあった。ホテルまで歩いて十分ぐらいだ。しかも、明日コンベンションホールに行くバスターミナルも近くにあるので、時間をすぐに調べられた。
息子も一もバックパックを背負い一路ホテルを目指した。やがてネットで確認していた目印のスーパーが見えてきた。これは幸いだった。しかも弁当屋もある。無駄なお金は使えないので、一にはありがたかった。息子は焼肉弁当やから揚げの特盛弁当さえ食べさせておけば機嫌はいい。それにスーパーでお菓子の買い出しできるのだから、これは地の利があると思った。
 観光ホテルではないから部屋の三階見る景色に特別なものはない。ホテルの近所の建物がこじんまり見えるだけだ。しかし、一にとって新鮮だったのは、ロビーにある『沖縄タイムス』や『琉球新報』などの地元紙と本土の大手新聞の論調に大きな温度差があることだった。ここは、沖縄なのだ、と実感する日だった。
「こうちゃん、覚えてるか、小学生二年ぐらいのときにも来ているんやで、ここは、オ・キ・ナ・ワっていうねん、言ってみー」息子はオウム返しにしかほとんど喋れない。発音も正確になぞれない場合が多いそれでも、
「お・ぎ・な・ワ来た」とたどたどしく言う。
「そうや、ここはお・き・な・わ!やで」
「安室ちゃんに会いに来た!言うみ~!」
「あ・ム・ロちゃん会いに、来た」
「そうそう、明日連れたるからな!」
「お風呂入ろか?」言うが早いか息子は裸になっていた。あわてるなと、いう暇がない速攻だ。沖縄は秋といっても日差しは強いので温かい。
「ちょっとまち! こうちゃん! まだ湯が入ってないやろ!」いつものこととはいえ、行動パターンに入っていることは先読みして行動するのも息子のような知的障害もある自閉症児の特長だった。
 風呂に入り、身体を洗う。息子は中学三年になり急に食欲が増し体格がみるみる大きくなり背は一を越していた。また、脇毛や陰毛も育ち脛毛も濃く、顔がアンバランスに幼いのに戸惑うほど成長していた。
「こうちゃん! 背高なったな!」一はあまりいうこと聞かない反抗期のときに、ぶん殴ろうとしたことが何回かあった。しかし、息子は力が強くなっており、本能的に一の手首を取ることが多かった。すると、その力の強さに一は恐怖を覚えた。振り上げたこぶしの手首を取られると、どうしようもなかったのだ。こりゃ力では負ける。と実感してから一年経ちいまは落ち着いてきた。それでも、一般中学生に混じって勉強につていけないし、友達もできないから、ひとり行動パターンが独自に発達してきた。寄り道を覚えたのも反抗期と期を一にする。スーパーLIFEの横を通って帰るのが普通だったのに、誰の教えで覚えたのか国道169号線の越部駅の先にあるコンビニまで寄り道することがあった。そして、自覚なくコンビニに入りお金の概念とぼしいから、お菓子を持ちだしたりしたという話がでてきた。そのことを何回か繰り返したときは、
「こうちゃん! お金持ってないとアカンやろ! ごめんなさいわ!」
「コンビニでお菓子持ったら…」
「おカシ持ったらアカン!」
「そうやな。万引きいうてそれはアカン! 分かった?」
「コンビニで…」
「おカシ持ったらアカン!」
「そうやな、アカン!」
 何度も言い聞かしてきたが、パターンが変わるまで時間がかかる。知的障害があり、自閉症だから親も根気よくつきあうしかない。しかし反抗期になると母親のいうことは聞かなくなった。そこで父親は怖いものだ、と思い知らす必要があり、一はときには自分の悪いクセで興奮しすぎて怒るものだから、手首握られ反撃に出られてヤバイと思ったので、怒鳴るぐらいで止めた。繰り返し一も冷静になったときに、行動パターンに入るようにしつけするのだが、風呂と言えばもう裸になっているクセは二十歳を超えても変わらない。
風呂に入り冷やせと汗を拭うと急に腹が減ってきたので、ホテルの向かいにある弁当屋さんに行き、焼肉弁当大盛りと唐揚げ弁当を買い、スーパーでペットボトルやお菓子なども買いホテルで食べた。
一はこのコンベンションホールでのLIVEが個人的には最高に良かったと思っていた。そのことは沖縄から帰ってからもブログで記していた。


安室奈美恵ちゃんファイナル成功! おめでとう!! 

 安室奈美恵『NAMIE AMURO LIVE STYLE 2006』のツアーコンサートがソロ活動するようになって初めて沖縄コンベンションセンターで行われた。オイラは今年初めて、年甲斐とかをとっぱらって、追っかけをした。

 しかし、ツアー最初の埼玉スーパーアリーナー公演に行かなかった自分にいつも不満があった。で、自身の進路転機を実感したことをきっかけに、オイラは8月半ばから下旬にかけて、ヒッキーの埼玉スーパーアリーナー公演と翌日に安室奈美恵ツアーの幕張公演を追っかけし、その足の余勢を駆って、赤プリ(赤坂プリンスホテル)や神宮に行き、さらに翌日は甲子園の引き分け再試合となった早稲田実業と駒大苫小牧の再試合を観戦するという、ハードなスケジュールをこなした。

 いや、その間、周囲(まわり)に美女が次々に現れて、一体、何が起こっているのかさっぱりわからなかった。だけど、HKは小顔で美人で、親切だったし、赤プリの接客女はあまりにもグラマラススカイで、正面見て話すのをおもんぱかった。

 しかも、神宮の女性警備員はなぜか、タレントのコスプレのようで、頭の中は混乱していた。だけど、振り返って、ひとつひとつを思い出すと、あのとき、ヒッキーパワーの黒帽子をなぜ、岡田監督に届けなかったのか、とういう後悔もあった。

 しかし、オイラはこの3か月の密度の濃さとどこかで、突っ張っているように、からかわれたりしていたようだけど、安室奈美恵ツアーの沖縄での追加公演があったことを心の底から喜んでいる。

 もう、内容は書かないけど、オープニングのバイオレット色の衣装、ダンサーの中央に立つ安室奈美恵のカッコいいブレークダンス、ほどよいボリュームのイントロ、オイラはこれだけ、観ただけでも、満足していたが、ファイナルツアーとなった、沖縄の安室奈美恵は、地元ファンにも熱烈歓迎された。

 下記はWikipediaの抜粋だが、アンコールで『CAN YOU CELEBRATE?』を歌いだしたときは、紅白のトリで歌ったころを思いだし、感激した。出産後、再び紅白に出場したとき、安室奈美恵の出番だけはしっかり見ていたのだ。
 和田アキ子が「お帰り?」と言ったのかな。安室奈美恵は「ただいま?」とか応えて、紅白のトリをしめくくったようなことが、あったような気がする。

 はっきりしているのは、人妻になった安室奈美恵だが、魅力が益々出て、可愛いかったしぐさが、頭にこびりついていた。

『CAN YOU CELEBRATE?』
第48回NHK紅白歌合戦では、史上最年少(当時19歳)で紅組のトリを務めた。出産・育児での休業を経てカムバックした翌年の紅白(第49回NHK紅白歌合戦)では、ふっくらした姿で1年ぶりに公の前に登場し、2年連続で『CAN YOU CELEBRATE?』を涙ながらに熱唱した。

 いや、バンドマスターのSANOさんの息なはからいで、『NEVER END』を追加アンコール、オイラは安室奈美恵の底力を知り、あの子の涙を見て、涙そうそう、状態になった。宜野湾から那覇へ向かうバスの中で、不覚にも涙した。

 畜生、やりやがった。アムロちゃん。スゴイ。参った。いや、このツアーは、ライブならではの真剣勝負をバンドの4人とダンサーが複雑に交わり、変幻自在の選曲や構成順序を変えているのだから、失礼を承知で言えば、大したチームワークだ。

 今日、ある週刊誌で棒ダンスのエッセーを書いているのを読んだが、今日のアムロちゃんを含む三人のバーダンスの技は見事なアンサンブルだったと思った。ファイナルで、難しい技もこなしたように見えたのは、オイラの錯覚だろうか。

 ともあれ、N.A最高のファイナル地元で飾れて良かったね。

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 一はこういうLIVEをコンベンションで見たのだが、コンベンションセンターの器が気にいった。アリーナのように大きすぎず、しかも左右が広くて奥行きは手頃で四、五千人規模の会場はいままで見たLIVEで一番良かった。ステージの丸い階段のせり出し具合が一番どの会場よりもフィットしていると感じたものだ。大阪城ホールでは、最初は当日券がわずかに出るというので、五時間ぐらい前から会場付近に行った。ところが並んでいる列が別の催物の列で一時間半ほど無駄に過ごして焦った。一は仕方なくわずかの当日券の列に並ぶ一方で、チケットを譲ってくれる人を探していた。当日は10月の初旬で西日が熱く照り返し、息子の列に並んだのだが、なぜか息子もぐずることなかった。奈良・吉野からの道中のドライブを喜んでくれていたからでもある。ファンの中でアリーナ列の前から9番の席を一枚譲り受けたが、息子のチケットがいるので、列にならび手に入れて会場に入ったときは、ドッと疲れが出たものだ。それでも切符が手に入る前には安室奈美恵の15周年ANNIVERSARYお祝いの花束と和装の小物を届ける段取りをしていた。
まず、二階後ろの立ち見近い席で息子を座らせ「ここで見るんやで。動いたらアカンよ!分かった? 返事は?」と息子に念を押し
「ハーイッ」と下がるイントネーションの応えを確認して、折角アリーナの9番という席のチケットを譲ってくれた若い女性の近くの席に移動した。感覚的にはアリーナ席のステージのせり出しは目の前で花道は横に見える位置だったので驚いた。何もここまでいい席のぜいたくなど、望んでいなかったのに、譲ってくれた若い女性に何度もお礼を言って、ステージにこしらえられた席でオープニングを待った。幕張メッセのステージを経験しているから、オープニングが楽しみだった。一はオープニング曲の映画『シン・シティ』の挿入歌の『Violet Sauce』 が大ヒットした曲ではないが気にいっていた。独特のリズムや歌詞にも興味を持っていた。また、衣装も気にいっていた。三本LINEが胸に入ったViolet色のロングドレスにピンマイクをヘッドからツケ踊り歌う。そのオープニングを見たいために、大阪城ホールで十一月初めの追加公演を行くことを決めていたのだった。
11月4、5日に大阪城ホールの追加公演が組まれたのは当初の10月28日、29日公演が大好評でファンがあふれたからだった。一は一日目は息子を連れて参戦した。翌日は要領が分かったのでダフ屋でも手に入るだろうと、入場二時間ぐらい前にクルマで行き、ファンのコスチュームプレイファンの成りきり安室奈美恵のグループがいろいろあるのを知り、話しかけたりしていた。なかには安室奈美恵の等身大ディスプレイを持つファンもいた。
「こんなのどっから持ってきたの。まだ、この安室ちゃん16歳ぐらいじゃないの?」ハッピ姿に背中に○亀の文字を背負ったいわゆるおなべといわれる彼は、
「これ いいでしょう。オレの宝もんのひとつで、安室ちゃんの久しぶりのアリーナツアーというので、力いれて持ってきたんですよ。もちろん、こんもの会場に入れられませんから、オレらのグループのデモストレーションです」と笑っている。もともとは小柄な女性が男役を演じているが、一はこんなファンもいるんだと、安室奈美恵のファン層の広さにむしろ感心した。
「しかし、こんなものどうして手にいれたの」「手口は秘密ですよ。こんなん酔っ払って持って帰ったとかいったらヤバイでしょう」仲間の彼女は横で可愛く微笑んでいる。えくぼがすこし凹み
「キミの彼女可愛いね」と一がいうと
「もちろん、オレを愛してくれてるからね」と誇り高くしゃべっている感じだ。
「彼女、ねえ、こういうこといったらますいかも知れないけど、本物の男より彼のタイプがいいの」
「そうよ。おじさん! そんな娘いっぱいいるんやで! 安室ちゃんファンでも…別に珍しいことちゃうよ。私もいまは全然気にしいへんねん。彼と一緒にLIVE参戦するの楽しいからね」とまた、チャームポイントのえくぼを少し凹ましほほ笑み返しをした。
「ほんなら、おっちゃんのような安室ちゃんファンいても、よせてくれるんやね」
「そりゃそうや! 歳気にしてはるんか? そんなん気にせんと一緒にLIVE楽しんだらいいんや! オレ等は今日で四回目の参戦ですよ。安室ちゃんファンは最低五回参戦して、初めてファンとして仲間になった感じですからね。この15周年の節目は大阪育ちのオレらには最高なんですよ」
「そう、実はおじさんも幕張メッセ最初に行ってから、代々木第一も行きたかったけど行けなくて、ね。仕事の都合で行けなくて、名古屋の仕事先からレター付きの花贈ったんやで。それで今日は昨日に続いての連チャンで来ているんやで。追加公演も一回は来る予定やし、沖縄コンベンション公演も行くつもりやねん。どや、安室ちゃん最長ファンに認めてくれる」と、一は年甲斐もなく、○亀のおなべの彼とうちとけてしゃべっていた」
「おお! おっちゃん。ええとこあるやん」と褒められた。安室なりきりのコスプレの連中は『GIRL TALK』のジャケットから抜けだしてきたファンもいる。腕のタトゥーまでプリントでマネしている例もある。華やかな大阪城ホール前の広場は開場の一時間ぐらい前になると、ひとがどっと集まってきた。最寄り駅のJR大阪城駅の方に足を向けて見ると、ダフ屋がたくさんでてきた。ひとの波は途切れることはない。大阪城ホールめざして、みんなが歩いている。一は冷やかし半分にダフ屋に「8000円で一枚ありますか」と聞くと、そのダフ屋はヤクザ口調で、
「おっさん、なめとんのか。安室奈美恵やぞ!! そんな値でさばくアホおるか」と怒鳴られた。そこで、ダフ屋が目立ちにくいところでチケットを手に入れようと考えて、ホールへ向かう通路の広い道から少し木の植え込みがる場所に立つダフ屋を探した。キョロキョロしていると、うまく目があった。このダフ屋はヤクザな感じではない。だから、彼らとショバを変えていることが感じられた。一のこういう感覚は自分でいうのもなんだが実に鋭い。アリーナツアーならまず、手に入ることは経験上自信があった。Hikkiのさいたまスーパーアリーナでは雛形あきこのマネージャーか関係者がタイミング良く、「チケット譲ります」のボードを掲げていた。それを見て直ぐにそこに向かったので、定価で譲って貰っていた。名古屋レインボーホールでは、やさしいダフ屋が500円当日券より安くわけてくれた。雛形あきこがHikkiのLIVEに来るなど想像もしていなかったから、会場に入って本当に驚いたけど、緊張はしなかった。なんでだろう、と思ったので、「こんにちわ」ぐらいの挨拶はした。なぜか、雛形あきこは美人の友達と来ていて、お菓子をいっぱい買っていた。公演前にこんなの食べていいのか、と思ったものだ。本来、飲食物は持ち込み禁止なのに売店でどっさり買っていたのが印象的だった。そんなことを思い出しながら、木陰で目立たないように帽子を目深にかぶったダフ屋に近づいた。
「すいません、一枚どこの席でもいいからお願いします」というと、待ち構えたように
「二階席やけど、安く定価でいいわ」と簡単に手に入れていた。あとは、開場待ちだ。いろいろなグループを観察してまわり、ファンの雰囲気を交流していた。
 そもそも、安室奈美恵はなぜ、あの日甲子園球場の二軍戦が行われたところに座っていたのか。一はどこから見ても、安室奈美恵だろう、なぜみんな気づかないのか不思議だった。本人が一の取材する席の二三段上の席に離れているだけだ。二軍戦だからファンは少ないので多くのファンは選手に近い前の席に集まる。だから、上を見ないとはいえこれはいったいどういうことだ、と、戸惑ったものだ。しかし、安室奈美恵が一のことを気にかけていることは確信できた。

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 二度目に目があったとき、
「だめ、吸い込まれそう」と、という声が小さいながらも聞こえてきた。
「わたし、寮長さんにここへ座っていて!」と言われただけなのに…」とささやいている。一はシートノックも入念に見る。そこで選手のコンディションは集中力のあるなしがわかる場合があるからだ。また、試合前の投球練習も必ず見る習慣が身についていた。それを続けると、ある日突然、その選手のフォームが遠目に見ても違い、タイガースにこんな投手がいたかなという、劇的に変わる姿を見たことを経験しているからだ。松坂世代で、少し出遅れた藤川球児がそうだった。二軍では簡単に抑える力を持っていたが、2003年星野仙一が監督になった二年目ころは、まだ、一軍には定着できなかった。いきなり五月だったかの巨人戦の満塁に登板を告げられ、高橋由伸だったかに満塁本塁打を打たれ二軍に落とされた。前年の星野監督就任後も後半戦で先発登板のチャンスをもらったが、星野仙一の信頼を得るまでには至らなかった。ところが、2004年の春に藤川球児は自分の新しいフォームを手に入れていた。一は鳴尾浜球場の一塁側からブルペンを見ていて、それが藤川球児だとどうしても思えなかった。軸足の乗り方がゆったりとして二段モーションでひだり足をリラックスさせ、速球を投げている。
「鳴尾浜の連中に双眼鏡を見せ、あれ、だれですか?」と、一自身自分の目が信じられなくて、顔見知りの野球経験者に尋ねたものだった。
「球児でしょう。間違いないです」
「やっぱりね。凄い球放ってません。いままでの球児と雰囲気が全然違うでしょう。あんないい投手タイガースにいた?」
「そうですね。上下動がない感じやね」
「遠目にみてもそう見えるってことは、ホンマモンになったってことちゃいまっか。今度の登板楽しみですね」
 チョビ髭がトレードマークの知人は社会人野球経験者なので、目利き自慢だ。一は自分の目も結構いけるんちゃうか、真剣に見ていたらわかるんやな、この頃からさらに二軍の練習もしっかり見ることに、話題になっているブログも始めた。
 安室奈美恵が頻繁に現れたのは、いつなのか記録しているわけではないので正確には思い出せない。しかし、あの安室奈美恵が発した、
「ダメ、目があうと吸い込まれそう」という言葉は記憶に鮮明であり、また、あの席に座って照れ笑いしていた安室奈美の可愛さはやはり、記憶に鮮明なのだ。あえてその過去にフィードバックする前に大阪城ホール「NAMIE AMURO LIVESTYLE2006」15周年ANNIVERSARYにこだわるのは、ゆえないことではない。一は安室奈美恵という人物像に自分しか成し得ない方法論で自分史に絡まっていることを残したいのだ。

 沖縄コンベンションセンターでの公演当日、朝にルートインホテル那覇で息子と食事を終え一段落すると、午後の公演前の通過儀礼として、一は沖縄公演おめでとう、の想いをどうしても届けたかった。大阪城ホールでもやっていたし、とくに本人にとって珍しい行動ではない。ホテルを出て、バスターミナルを通過して、那覇国際通り近辺で一はどこでもそうやったような調子で花屋さんを探した。国際通りの店のオープンは遅い店が多いようだったので県庁通りの入り口付近の通りから攻めた。そうしたら、実に直感的な行動が一の欲するような花屋さんを見つけた。店の雰囲気は南国色彩のある感じで、本土との違いを感じながら、いつも通っていたような調子で店に入った。店員さんは二十代半ばの愛想のいい可愛い娘で目が大きく少し浅黒く丸顔にバランスのいい琉球人の鼻と少し厚めの唇と南沙織を思い出すロングヘア、
「 めんそーれ!」と声をかけられただけで、今日は朝から当りの日だと思ったのは当然だ。「あの、沖縄コンベンションセンターで安室奈美恵ちゃんのライブあるんですけど、午後開演までに届けていただけますか?」と尋ねた。自分で下げて行く自信はなかった。大阪城ホールのときは自分で下げて行き、関係者入り口があったので、そこの係員に渡すと簡単に届けられたが、コンベンションセンターがそうなっているという保証がなかったからだ。
「わたしもアムラーですから、行きたかったぐらいです。那覇でも安室ちゃんは人気者ですからね。クロネコヤマトとかないですから、うちのクルマで配達しますよ。へえ! おじさん安室ちゃんのファンですか? 信じられない! 目がくるくるするのがわかります? わたしも行きたかったんのですから、わたしが配達します、と店長にお願いしますから……へえ! おじさん安室ちゃんのファンですか?」
「そんなに見つめないでください。奈良からきたんですよ。おっかけです。さすがにひとりじゃ来にくいから息子と一緒ですけどね。なにしろ、大阪城ホールでは追加公演を含めた四日間の公演のうち三日間行きました。その前は幕張メッセです。東京代々木第一は仕事の都合で行けなくて、アレンジメントの花贈ったんです。ま、かなりのおっかけです。最高齢ファンかもしれないですね」
「それじゃ、わたしが南国沖縄情緒たっぷりのアレンジメント作り届けますから、ご安心ください。ご予算は?」
 一は少し間を置いて、
「一万円!」と答えた。店の中は十一月末だというのに、向日葵や夏の雰囲気のブーゲンビリアなどもあり、熱気があった。そこで一はこの店の雰囲気が気に入り、
「あたなの情熱つきのアレンジメントとこの店のありったけの花の精気を込めた品でお願いします」と懇願するようにつけ加えた。
「ハイ! わかりました。安室ちゃんが嫉妬するような情熱込めて作りますから……」
 店員は一の気持ちをからかうこともなく、目はほほ笑み返しだった。
「それじゃ、この花とこの向日葵をメインに南国花添えで、アレンジメントしちゃいます」と、こっちもいいな、と、思わず一は漏らすほど可愛い店員さんに満足して、カードに沖縄公演おめでとうござます。の文言を書き、届け先の住所の会場を記し、満足気だった。
 花束の段取りが終わると、バスターミナルでもう一度バスの発車時間を確認して、切符を事前購入してホテルへ戻った。あっと、いう間にバス時間が来たので、おにぎりをバックバックに入れ、息子とバスターミナルに向かった。那覇から沖縄コンベンションセンターへ行くには国道58号線を宜野湾市に向かって小一時間北上するだけだ。宜野湾市に入ると正面にあの普天間基地があるのだが、バスはトロピカルビーチのある方向に左折れした。バスが沖縄コンベンションセンターバス停に着くと、開場まで、二時間はたっぷりあるというのに続々とひとが波打っていた。どこの会場でもおんなじ光景だ。ただ、違うとしたらそれは、沖縄の安室ファンもたくさん来ているらしい感じだった。一は若い時の返還後すぐの沖縄をバックパックで旅行以来、4度目だったが、一度は阪神タイガースの石垣島での自主トレ取材だったので、那覇は通過点だけだった。乗り換えのときに国際通りにあるという仲田幸司の実家のケーキ屋さんに行きおみやげにケーキを買ったことがあった。一は仲田幸司と相性が良かった。なにしろ『月刊Tigers』の仕事の適正テストで前任編集長から、いきなり、
「一クンな、ちょっと仲田幸司が調子いいらしいから取材してくれるか」と言われた縁もあった。一は揃えていた大事なバックナンバーの4月号か5月号に書いたそのコラムが確認できていないが、いつも思い出すのは「勝利に近道なし」と仲田幸司が色紙に書いた言葉だった。マイクこと仲田幸司に対する思い入れもだから半端ではなかった。『月刊TORAよさ』一九八九年一月号では、「マイク仲田の初速」というコラムを書いているぐらいだ。それをここに記せば、マイク仲田と一の距離感を理解してもらえるだろう。また、マイク仲田と安室奈美恵を繋ぐ点が線になることを後年知ることになるだろう。
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 久しぶりに仲田幸司に会った。いや、会ったというほど親しい関係ではないから見たという方が正確かもしれない。場所はホテル阪神の15階のエレベーター前にある控えのコーナーだった。御子柴もいたが、大人しい御子柴はプロ入りがマイク仲田より二年先輩なのに同輩のような雰囲気だった。仲田は黒と白のタータンチェックのスーツに身を包み、長い足を組んでいた。
「久しぶりですね」
「そうですね」
「今年はずっとこちら(関西)だそうですね」
「ええ! 女房がお腹大きいものですから……」
 その立ち居振舞いはすっかりプロ野球選手の風格がにじみでている。阪神電鉄グループの激励会に招待されていたのだ。
私が初めて仲田を見たのは、'84 の四月である。沖縄。興南高出身の選手は当時はまだスポーツ刈りのような髪型ににきび面であり、今の仲田には昔の面影はない。どこまでも一家の柱としての自信スター選手の自覚で彩られていた。
実は、私がタイガース関連の仕事をするようになって、初めて取材したのが、仲田なのだった。読者にとってはそんなことはどうでもいいかもしれない。しかし、ただのファンがいきなり、スポーツ界の、しかもプロ野球という世界の将来のスターの生卵を取材するというのはやはり心躍るものがあった。仲田は四月の後半頃から得意の速球をビシビシ投げるようになっていた。プロ入り二度目の登板(ただし、ウエスタン)だったが、その時の話が、今の、つまり五年後の仲田に当てはめても、そのままなのが面白い。
「ボクの近況ですが、何と言っても課題はコントロールです。ヒットは全く打たれなかったのにコントロールが悪く、四球連発、敗戦投手になりました」
 というわけだ。この時、プロ野球に入るような投手の手はどうなっているんだろう、と仲田の手を見せてもらった。とにかく指が長いのには驚いたものだ。その頃の色紙には好んで「気迫」という文字を記し、モットーとして「勝利に近道なし」と答えていた。この言葉を思い出して、私は思わず苦笑せざるを得ない。入団時から、だれからも好かれる優等生だった仲田は、入団一年目は「三年後を見てくれ「と言っていたのだが、吉田監督就任一年目に3勝。二年目に7勝。三年目に8勝したものの。昨年は6勝9敗に終わった。素質ではナンバーワンと言われながらもこの数字は大器としてはモノ足りない。例えば近鉄の小野などに比べると特に寂しい気持ちになる。かたや3年連続の10勝以上をクリアーして、年俸5千4百万円とかいわれる大投手になっているのに、仲田は小野の3分の1にも満たない。
「仲田が額面通りの素質を本番のゲームで発揮したら、たちまちタイガース投手陣のナンバー・ワンの年俸になるんじゃないか、というのは衆目の一致するところだ。それだけに、人の良さを少しは返上して自分の道を進んでほしい気がする。
 入団当初は、池田・中西両投手の人気はすさまじいものがあった。仲田は「うらやましさ」を感じていたものだ。その仲田も一九八五年の米田コーチの就任によって、一躍タイガースの投手陣の寵児になり、安芸キャンプではファンに囲まれたものだ。今、昨年浜田で練習していても仲田を追いかけるファンはそうない。総じて人気先行のチームが、選手もようやく正統? な評価されているのかもしれない。ひっそりしている。
私は初めて見たあの大きな手の長い指を反芻するように思い浮かべている。同期入団の同僚の中の中谷は近鉄へ去り、横谷は昨年ようやく一軍の足掛かりをつかみ、吉川はどうしても一軍の壁を破れずに低迷している。ここだけ比べれば仲田は順調? とも、いえないこともないのだが……。

 一はこのとき当然のように阪神タイガース仕事から去ろうと決めていた。だから沖縄コンベンションセンターへ行くバスから基地の街沖縄を感じると同時に、仲田幸司のことを思い出していた。
 コンベンションセンター前の広場には続々とひとが集まっている。屋外のグッズ売り場にも列ができていた。一はグッズは買う予定がなかったので、あまりない木陰を探して、週刊誌の行間を眺めていた。息子と遅い昼飯として持ってきたおにぎりを食べ終わっていたので、休憩していたのだ。すると、どこかで見かけたことがある、ひとたちがいた。しかし、なかなか思い出せない。ついでに退屈すると散歩がてら駐車場に行くと、大きな10トントラックが10台以上並んでいた。そのナンバープレートを眺めていると、何かの暗号があるかのような錯覚になり、写メで撮ったりしたものだ。空は青い。西日は少しして落ちだすのだが、浜にでて歩くなどという余裕はなかった。ざわめきとトロピカルビーチの風がときどき頬をかすめて気持ちいいのだが、直射日光は熱い。冬の沖縄本土は結構寒いのだが、この日は熱い。服装も半袖のシャツに薄い上着があれば十分だった。ま、もう知っているのだ。この15周年ANNIVERSARYの「NAMIE AMURO LIVESTYLE2006」は大阪城ホールで三回もみているのだ。あの、開演の「Violet Sauce」のオープニング見たさにここまで追っかけしたと言っても過言ではなかった。

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大阪城ホールの二日目はなぜか、隣に優香がいた。どこから見ても優香だったが、そんなことに構う余裕はなかった。アリーナのC列70番台だったので、これなら二階席の前でもいい、と感じたものだ。一時間ほどすると体調が悪くなってきた。糖尿病の薬の血糖降下剤のベイスンの副作用でお腹がゴロゴロしだしたのだ。そうなるとこの会場からでるしかない。ステージの切れ目を狙って、ほうほうの体で会場をでてトイレに向かった。このベイスンの副作用は本当にやっかいだ。ごろごろしだすとガスつまり、おならがでる。そして下痢気味になりトイレに直行しなければならない。優香とのLive鑑賞? はそういう日にであったのだ。パソコンを入れたカバンからパソコンをだし、カバンを席に置いてきた。それがもめるもとになるなど、夢考えられなかった。
トイレからでて体調が良くなるまで、通路のイスに座りパソコンで遊んでいた。体調が安定してきたところを見計らって、再び自分の席に戻ろうと思ったときに、その事件は起こった。場内係員のピチピチの黒い制服のスーツを着た女性にとがめられた。再入場できない、といいだしたのだ。一は一変に気分を害した。
 その女性はあとで気づいたのだが、なぜか倉敷マスカット球場の広報係をしていた、磯山さやかだった。丸顔で胸がでかくぷりぷりの小柄なグラビアアイドルでヤクルトのイメージGIRLをやっていた。深い意味もなく一は付録にCDの動画だったかがついた写真集を買ったことがある。
「あのお客さま、半券がなければ入れません!」
「いや、そういわれてもいま、持ってません。でも53列の席に小さな背負いのKANGOLのバックありますから、そこにいれてますから…」
「そういわれましても 半券をお見せいただかないと、入れるわけにはまいりません。規則ですから……」
「規則はわかった。いや、そういわれてもいま、持ってません。でも53列の席に番号は覚えてないけど小さな背負いのKANGOLのバックありますから、そこにいれてますから…」
「そういわれましても…」
「規則はわかった。だけど、53列の席にカバンあるから取ってきてくださいよ。そうしたら、半券見せますから~」
「そういわれましても、ごまかす方もいらっしゃいますからね」
 場内係の磯山さやかは、言葉はていねいながらなんとしても、中に入れないという信念のような形相で大きな目を見開き、扁平な頬を膨らまし、このおじん、なにトチ狂っとんねん、どこがアムラーや棺桶に片足突っ込んだシネラー見たいな顔しやがって、と、思われたように感じ、一は自分の妄想が広がりやがて感情が昂ぶり、
「うるさい! この融通の聞かない馬鹿め!」というや、強引に会場に入り53列の席のKANGOLのバックを手にすると、一目散にまた、出口に戻ってきた。
「帰りゃいいんでしょう!」と大剣幕で去ろうとした。磯山さやかもやるすぎと思ったのか、
「申し訳ありません」とていねいに頭を下げていたのだが、一はこの感情で残りのライブを楽しむ心境にはなれなかった。さっさと大阪城ホールを退散した苦い経験があった。その延長線上に十一月初旬の追加公演があったから、岡田監督に、
「ゴルフでも誘ってやれよ!」とマネジャー通じてとそれとなく言われても、できなかった。大阪城ホールは行くことは一にとって自分で決めていたスケジュールなのだ。 
しかし、磯山さやかは嫌いではない。だから、翌年に気にいったグラビア写真の切り抜きを財布に忍ばせていたのを、両面色紙にイラストを描き事務所へ贈ったものだ。
確かに、そういう経験が多々あったので沖縄コンベンションセンターでも見た。ダンサーさんなのか、沖縄コンベンションセンターにオフで来ているタレントさんなのかアーティストなのか全然思いだせないが、そういうファンもいるのではないか、と、本土からもたくさん来ているであろう、アムラーのファンを観察していた。
 ブログで書いた「安室ちゃん良かったね」というのは、実感だった。あのMCしない安室ちゃんが「CAN YOU CELEBRATE?」で涙がでて途中で詰まった。アムラーはそういうとき、どうするのだろうと思ったらその空白をファンが合唱で埋めた。一も感動した一瞬だった。
「永遠という言葉なんて知らなかったよね!」
「CAN YOU CELEBRATE?」
「CAN YOU KEEP TO NIGHT」


 さらに喋らない安室奈美恵が喋った。沖縄で育って確か九六年に念願のコンサート開いて、そこから2005年の「Queen OF Hip Hop」で自分のやりたいプロモーションビデオなども作りホールコンサートも実現した。その数年前は家族に不幸があり、追い打ちをかけるように事務所社長の脱税逮捕など、忌まわしい記憶を呼び戻す沖縄公演など考えもしたなかったような感じの安室奈美恵がコンベンションセンターで語った。
「なんでいままで来なかったんだろう。沖縄から上京して、15年になるのに。ファンのみなさま、本当にありがとう」
 中学生でアクタースクールの優等生たちとともに上京したとき、安室奈美恵は重い荷物抱えて地下鉄に乗り移動するという経験をしていた。また、スーパーモンキーズとしてデビューしたときは空手のパフォーマンスをやっていたという。日課が近所の公演での空手の型だったというのだから、面白い。しかも安室奈美恵の愛用のジャージは沖縄で在籍していた中学校のスクールジャージだ。一はそのころのことは知らない。安室奈美恵ANNIVERSARY15の公式グッズのTOURBOOK買って読んで知った知識だ。安室奈美恵を知るのは「Try Me」でヒットしてからだ。ソロになりいつの間にかアムラーという厚底靴やセンター分けのロン毛が流行ったことは知っていたが、多忙な時期でもあり、歌番組など見る機会がなかった。それは自分史小説の「電波障害の愛」に書いてきた通りだった。
安室奈美恵はバンドマスターのSANOさんの粋な計らいで、沖縄コンベンションセンターならではのアンコール曲で「NEVER END」を歌った。今度は安室奈美恵は泣かなかった。本来ならツアー終了後に発売したDVDを見ればわかるが、エンディングは違った。2005年の五月に発売したシングルの安室奈美恵が影響されたというPVにジャネット・ジャクソンのコピーが濃厚なダンスが入った「CAN'T SLEEP CAN'T EAT.I'M SICK」だった。
それが沖縄サミットだったかの「NEVER END」になった。一はこのアカペラバージョンやエイサーバージョンが好きで良く聴いていた。もっとも安室奈美恵の歌などまともに歌える歌などない。それはHikkiの歌でもおんなじだ。横文字が入るところの音程がまず取れない、ブレスのタイミングがわからない、それでもこのコンベンションセンターの安室奈美恵のできは一にとって一番いいLiveだったと感じてきた。実際にはアンコールを含めて安室奈美恵は沖縄コンベンションセンターでは通常のセットリストより3曲も余分に歌った。一の知らない曲の「GO!GO!~夢の速さで~」と「CAN YOU CELEBRATE?」だ。都合3曲は沖縄公演のみで歌われていたのだ。
実はこの「CAN'T SLEEP CAN'T EAT.I'M SICK」のプロモーションビデオとこの曲のキャンペーンにかける安室奈美恵の思いは、一というおじんを追っかけするという行動に発展するのだが、それは、阪神タイガースと北神戸にある、通称あじさいスタジアムのサーパス神戸との二軍戦にあろうとは、誰も気がつかなかった。


もう、初夏というには日差しが眩しすぎた。北神戸のサーパス神戸の本拠地は一般入場者の入場料が300円だ。それでいて、ファンは両軍のブルペン投球もじっくり見れる構造になっている。バックネット裏と一、三塁側はスタンド席はなく芝生席になっているが、両軍のブルペンはそのスタンドから見下ろせるようになっていた。鳴尾浜球場などはスタンドが狭いのと、ブルペンがファンから見れない構造になっているので、北神戸の新興なった通称あじさい球場はスタンドもゆったりしており、ファンにも好評だった。ただ、交通の便が悪いので、クルマがないと大変だということが不満になるだろう。メーン球場にサブ球場にソフトボールグラウンドもあり、広びろとした敷地に運動公園がひろがり、室内体育館なども完備している。クルマという足さえあれば、裏六甲や高速の北神戸で降りればすぐなので、便利ではある。
サーパス神戸とは、オリックス・バファローズの二軍チームの名であり、サーパスというマンション開発などのデベロッパーがスポンサーになり、選手移動のバスもサーパス色が満開にペインティングされていた。ひと目みればわかるキャラクターのSILKY(シルキー)ちゃんとSUMMER(サマー)くんの可愛いカップルが大きく描かれていたからだ。
2005年5月安室奈美恵はジャネット・ジャクソンをコピーしたような踊りと曲調のプロモーションを精力的にこなしていた、歌番組に出演し、FMラジオなどにも出演していたようで、身内や所属事務所のごたごたもあり、一年半休んだあとの「アリーナ公演だって埋まるかどうかわからないよ!」と突き放される時期があった。ユニット集団の「SUITE CHIC」に入るきっかけは一が大きく影響を受けた「Lov'n it」VERBALとのコラボだったのだが、この辺りから再びアリーナ公演を目指すプランが芽生えていた。2004年に発売した『SAY EHE WORD』は安室奈美恵自信がプロデュースしプロモーションビデオの最後のシーンが過去から未来に向かう象徴として湖に足を運ぶような映像になっている、一も気にいっている一曲でもあった。しかし、
「Love'n it」にであったほどの衝撃というか、こころに染みこみように聞き入るようなことはなかった。AIちゃんも加わった一曲は幕張メッセのとき、セットリストにはなかったのに歌われた。舞台セットの映像にはVERBALのラップシーンやАIの姿もセット両サイドに映され印象に残ったものだ。安室奈美恵は一が幕張メッセに現れたことを知っているのは確かだった。一はとにかく前日は埼玉スーパーアリーナに行きヒッキーの公演に奈良・吉野から直行で駆けつけていたのだ。安室奈美恵にしたら「なぜ、わたしの埼玉シーパーアリーナには来ないの?」と思っていたのに違いない。確かに統合失調症の一の思い過ごしには違いないのだが、こと安室奈美恵に関しては、そういうだけの根拠があったのだ。
安室奈美恵は一年半のブランクを経て、この年に「Queen of HIP HOP」の全国ホール公演でみごとなLiveを披露して、翌年の15周年アリーナツアーになるのだが、安室奈美恵といえでも初のコンサートが簡単にできたのではなかった。MAXと組み「Try Me」でやっとヒット曲がでるまで三年かかりそれを経て、
やっとMAXとのコンビで単独コンサートの舞台に立ったのはサンプラザ中野だった。事務所の先輩の荻野目洋子や観月ありさのコンサートを観る側だったのが叶うまでになった。
「BODY FEEL EXIT」の小室ナンバーは最高にLiveにはまり人気を博したので、一にもなぜか、イントロだけ耳に残ったものだった。
 安室奈美恵は女性マネージャーらしきひとと二人で北神戸にあるあじさいスタジアムのネット裏の前通路を何度か行き来していた。一は間もなく始まる試合前のシートノックなどもできるだけ見るのも仕事なのでよそ見はできない。しかし、あの女性どこかで見たことがある。白い長袖のブラウスで腕を隠すのはタトゥーのせいなのかな。あの女性の横にいるのは安室奈美恵だろう。なぜ、しかもファンが気づかないのかな。気づけば野球どころちゃうやろ。一は仕事に集中しないといけない事情がある、新聞記者なら、他のしごとしながらも見てきたようにカウントつけていなくても書くなど朝飯前なのは、その業務の性質上知っているが、一はそういう記事をどこまで信用していいのかに、同時に疑問も持つようになってからは、自分にとって大切なときは、自分の基準を信じるようにしてきた。いい加減なときはまったくわからないので、新聞記者の報道を右から左に引用することもあるが、二軍は真剣勝負の舞台だ。その気になればやり甲斐があるので、2000年以後は楽しかった。新聞記者もまともに取材などしないのだ。
 一は安室奈美恵かどうか確信はなかったけれども、最近発売したという「CAN'T SLEEP CAN'T EAT.I'M SICK」のプロモーションビデオの映像とジャネット・ジャクソンのようなダンスシーンを頭に描いていた。元妻もあのプロモーションビデオ見て、「安室奈美恵はジャネット・ジャクソン意識しているね」と言っていたものだ。一はそれならそれで、安室奈美恵を喜ばそうと思った。2006年の十五周年が突然訪れたわけではない。一と安室奈美恵にも前史といえるものがあったのだ。宇多田ヒカルは違う。宇多田ヒカルの出現は一にまったく理解できない世界から飛び込んできた。ニューヨーク育ち。15歳で「AUTO MATIC」の空前にして絶後の大ヒットは一の耳にも自然と入ってくる。クルマに乗りラジオのFMで好む好まないにかかわらず連日流れていたからだ。また、たまに歌番組見る機会があると、独特のため口で語っているのだが嫌味がなく、頭の回転がよく、きさくさが常に気になったが、その当時はCD買おうとまで思ったことはなかった。
 安室奈美恵はスーパモンキーズでデビューしても売れない三年があった。キャンペーンで十人しか集まらない経験もしている。LIVEをサンプラザ中野でやることが当面の目標だった。
「いつか私もあそこに立ちたい-って思ってた場所だったから、初日迎えられた時は本当に感激でしたね。自分たちの衣裳があって、ステージセットがあって、グッズがあって…、ホント夢みたいだった。その頃よくね、『ヒット曲がでてからは3年が限界だ』って社長から言われてたんですよ。また次もその次もやりたい!ってウキウキしているときに、そんなシビアな現実つけつけられても…ね(笑)」
 一はMAXの存在が安室奈美恵の大きかったことを知ったのは幕張メッセで2006年NAMIE AMURO LIVESTYLEでツアーブックを買い安室奈美恵のインタビューを読んでからだった。それまでも安室奈美恵の表紙のファッション雑誌などを買い安室奈美恵発言のチェックはしていたが、サンプラザ中野が目標だったなどは、知らなかった。
その秘密を知り、沖縄LIVEの裏側を『Fan Space16・17』(ファンクラブの会報)のLIVE STYLE2006LIVE REPORTで知ったのだが読んで感激したものだ。安室奈美恵の母親への想いが想像に難くないことは当然だったんだな、と実感した。それなら不遜ながら一が寄り添ってお蕎麦になるしかないな、と感じたのもこの会報読んだからだった。いや、実際、安室奈美恵はハードワークしていたんやね。一はそういう風に受け取っていた。「テメエの思い込みちゃう?」といわれたら、「その通り」と一は答えるだろう。本来なら11月5日の大阪城ホールでの追加公演で安室奈美恵の達成感は一度は頂点に立っていた。しかし、安室奈美恵の沖縄公演の希望が急遽実現したのは二週間前だった。一は手元にはないが、そのころの感想をLOVELETTERのようなファンレターに書き送った記憶がある。
会報にはその裏情報が細かな字で綴られていた。乱視と遠視まじりの一はその文字を読むのにルーペを使用しないと読めないほどの5級ぐらいの中ゴ文字だったが、何度も読み沖縄公演に行って良かったと満足していた。




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